はじめに
顔福慶(颜福庆)は、「南の湘雅、北の協和」と呼ばれる湖南省長沙の湘雅医学専門学校の設立に尽力し、初代の学長となった。

生い立ち
顔福慶(Fuqing Yan)は1882年に、江蘇省上海江湾鎮(現在の上海市虹口区)に生まれた。父はそれほど裕福ではないキリスト教牧師であったが、顔福慶が幼い頃に腸チフスで亡くなった。兄弟が五人と多く、母も病気がちであったため、顔福慶は7歳から伯父の顔永京の家庭で育てられた。

伯父の顔永京は1839年に上海で生まれ、16歳となった1854年に米国オハイオ州のケニオン大学に留学し、心理学を専攻した。1861年にケニオン大学を卒業して帰国し、上海の英国領事館などで通訳として働いた。その後顔永京はキリスト教に入信して司祭となり、さらに米国聖公会と協力して聖ヨハネ書院(Saint John's College)の設立に尽力し、1881年に同書院の院長に就任した。顔永京は1890年に退職し、1898年に亡くなっている。
顔永京の子供で顔恵慶は中華民国時代に総理を務め、もう一人の子供の顔徳慶は鉄道技師として有名である。この顔恵慶と顔徳慶、さらに今回の記事の主人公である顔福慶を三人を、顔氏三傑(颜氏三杰)と呼ぶことがある。
顔永京が院長を務めた聖ヨハネ書院は、1892年に聖ヨハネ大学(圣约翰大学、St. John's University)となり、さらに1896年に医学部を設置した。この聖ヨハネ医大学の医学部は、現在の上海交通大学医学院の源流の一つである。

聖ヨハネ大学、イェール大学を経て長沙で医師に
顔福慶は、育ての親である顔永京の影響で聖ヨハネ大学の医学部に学び、1904年に同大学を卒業して医師となった。顔福慶は卒業後に、南アフリカに渡り鉱山会社の医師として働いたが、当時の鉱山労働者の悲惨な生活環境や労働条件を目の当たりにし、より深く医学を修得しようと、米国への留学を決意した。
顔福慶は1906年にイェール大学医学部に入学した。医学部のクラス15名のうち中国人は顔福慶一人であった。1909年に卒業し、医学博士の学位を取得した。イェール大学で博士を取得した最初の中国人となった。顔福慶はその後英国に渡り、リバプール熱帯病研究所に勤務して、熱帯病の研究を行った。
顔福慶は1910年に中国に帰国し、米国イェール大学の卒業生の援助により1906年に湖南省長沙市に設置された雅礼医院に外科医として勤務した。「雅礼」は中国語でイェールの意味である。
湘雅医学専門学校を設立し初代学長に
1911年の辛亥革命などの混乱を経験した顔福慶は、中国人の主導による医学教育の確立が不可欠であると考え、湖南省政府や母校イェール大学に医学校設立を働きかけた。
その結果、湖南省とイェール大学とが1914年に合意に達し、1914年末に湘雅医学専門学校を設立した。「湘」は湖南省の略称であり、「雅」はイェールを表す「雅礼」の最初の文字である。そして、初代の院長には、32歳になっていた顔福慶が就いた。
湘雅医学専門学校は、8年制の医学校であり、当時の中国高等教育機関で出来なかった博士号の授与が可能となった。以降湘雅医学専門学校は、米国ロックフェラー財団が1919年に設立した北京協和医学院ととともに、中国の医学教育を牽引し、「南の湘雅、北の協和」と呼ばれることになった。
湘雅医学院は、設立後何度か名称を変えつつも、独立した医学高等教育機関であったが、2000年に中南大学が設立された際、同大学の医学院となった。

晩年
顔福慶は44歳となった1926年に、北京協和医学院の副院長となった。その後も、1927年に第四中医学院(その後国立上海医学院を経て復旦大学上海医学院)の初代学長や国民政府の衛生署署長などを務めている。
第二次世界大戦後も上海に留まり、医学教育に引き続き携わった。
1966年に文化大革命が勃発すると、84歳となっていた顔福慶を革命派が残酷に迫害したため寝たきりとなり、1970年に死亡した。
参考資料
・新湖南HP 湘雅医学办学110周年特稿:缅怀颜校长,开拓新局面
https://m.voc.com.cn/xhn/news/202412/21450247.html