はじめに

 熊慶来(熊庆来)は、フランスで数学を学んだ後帰国し、清華大学などで多くの数学者を育てた。華羅庚はその代表的な数学者である。

華羅庚の師の熊慶来
熊慶来 百度HPより引用

生い立ちと教育

 熊慶来(熊庆来、Qinglai Xiong)は、1893年に雲南省弥勒県に生まれた。父は学校の教師であった。熊慶来は小さい頃から利発であり、ある日、お箸を水の入ったお椀に突っ込んで、箸が折れているように見えたとして理由を父に尋ねた。父は、熊慶来が科学的な思考ができる子だと判ったという。

 熊慶来は7歳の時から私塾に通い、勉学を開始した。利発な熊慶来に期待して、父は家庭教師を二人も雇い、伝統的な中国の古典の勉強やフランス語、自然科学を学ばせた。

 1907年、14歳となった熊慶来は、父と共に雲南省の省都である昆明に出て、雲南方言学堂に入った。方言学堂は外国語や中国文学を教える学校である。外国語の授業が中心であり、他に数学など理系の学問も教えていた。

 1911年、熊慶来は雲南省の外文専修班の班員となり、欧州に留学するために、フランス語を集中的に勉強した。2年後にクラスで3位の成績となり、ベルギーへの留学の機会を得た。
 熊慶来が欧州に留学すると聞き、父親をはじめとして家族は猛反対したが、熊慶来の祖母が味方し、勉学費用を打ち切った父に代わって資金援助したという。

欧州へ留学

 1913年、雲南省は13人の学生を海外に派遣したが、その一人が熊慶来であり、彼はベルギーに行き鉱山学を学ぶこととなった。雲南省は豊富な鉱物資源があり、これを利用しようとする雲南省の思惑があった。

 ところが1914年に、第一次世界大戦が勃発し、熊慶来が勉強していたベルギーがドイツにより占領されてしまった。このため熊慶来は、フランスでの留学継続を考えて、オランダと英国を経由してフランスに入ったが、フランスの鉱山学校も戦争のあおりを受けて休校となっていた。そこで、熊慶来はフランスで数学を学ぶことを決意した。

 フランスでは、グルノーブル大学やモンペリエ大学で、数学や物理学を学んだ後、熊慶来は1920年にマルセイユ大学より理学修士号を取得した。

帰国後大学教師に

 1921年に、熊慶来は雲南省に帰国し、雲南省の工業学校に就職した。その後まもなく、南京に設立された東南大学から、熊慶来を数学科の学科長に招聘したいとの連絡があった。熊慶来はこのオファーを受けて、南京に向かい東南大学(現在の南京大学)の教授となった。

 1926年に、熊慶来は清華学堂(現在の清華大学)で当時の教務長・梅貽琦からのオファーに応じて、同大学の数学科主任として北京に赴いた。 

華羅庚との出会い

 1931年、熊慶来は清華大学の図書館で雑誌「科学」に目を通していたところ、ある論文が目にとまった。論文の内容は、中学校の物理教師だった蘇家駒(苏家驹)という数学者が「代数的五次方程式の解法」を公表したが、これに対する間違いを論じたものであった。
 論文は華羅庚(华罗庚)と言う人物であり、熊慶来は全く面識のない人物であった。熊慶来は、華羅庚の論文の論旨が明確で、内容が正確であり、かつ簡潔であると考え、華羅庚の素性を調べさせた。そうしたところ、華羅庚は大学の教授などではなく、江蘇省常州市で家業の雑貨商を手伝っている青年であることが判明した。

 熊慶来は、華羅庚の数学的な才能を見抜き、江蘇省から北京の清華大学に呼び寄せ、とりあえず清華大学の図書館の館員として雇用した上で、数学の学習と研究を続行させた。
 華羅庚は、英語、フランス語などを習得するとともに、さらに学術論文を発表していった。熊慶来は改めて華羅庚の数学的な才能を認め、中学卒の学歴しかない華羅庚を1933年に清華大学の助教に、1934年に講師に昇進させ、数学の研究に専念させた。

 華羅庚は、その後中国数学界の重鎮として活躍し、また、ゴールドバッハ予想の一つを解決した陳景潤を育成している。 

華羅庚の写真
熊慶来に師事した華羅庚 百度HPより引用

再びフランスに留学して博士号を取得

 1932年、熊慶来は国際数学者会議に出席するためにスイスのチューリッヒに行き、その後、パリで研究を行った。彼が学んだのは関数論であり、1934年に「無限次整関数と有理型関数について」という論文を発表し、熊慶来はこれによりフランス国家博士号を取得した。

 1934年、熊慶来は帰国して、再び清華大学で教鞭を執った。

 1937年の日中戦争勃発により、清華大学は北京大学、南開大学と一緒に国立西南連合大学を結成して雲南省に疎開したが、熊慶来も雲南省に疎開した。雲南省に到着した熊慶来は、雲南省の知事の要請を受けて雲南大学の学長に就任した。

 1945年に日本が太平洋戦争に敗北し、中国大陸から日本軍が撤退したため、国立西南連合大学など大陸西部に疎開していた大学が次々と東部に帰り、また国共内戦の混乱が続いたため、熊慶来は1949年にパリで開催されたユネスコ大会に参加した。ところが、熊慶来はパリに到着後、脳出血を患いパリで入院した。
 命を取り留めた熊慶来は、そのままパリに滞在し、数学の研究を引き続き行った。

文化大革命で迫害を受け死亡

 1957年、周恩来の招請に応じて帰国し、中国科学院の数学研究所の研究員となった。1959年には、中国人民政治協商会議の委員となり、国政にも参画した。

 1966年に文化大革命が開始されると、熊慶来の運命は大きく暗転した。熊慶来は、弟子の華羅庚と共に、反動的な知識人として革命派から激しい迫害と弾圧を受けた。1969年2月、度重なる迫害の中で、熊慶来は76歳の生涯を閉じた。
 文化大革命が四人組逮捕で終了し、1978年に熊慶来はその名誉を回復した。

参考資料

・風聞HP 数学泰斗熊庆来:辉煌人生与悲惨结局
https://user.guancha.cn/main/content?id=1111951