下放(上山下郷運動、1968年~)

 下放は、文革中に実施された学生や知識人などへの強制労働である。形式的には自発的な形を取る場合もあった。

学生に対する下放

 文化大革命が開始されてから、通常の大学入試や雇用は行われず、多くの青少年が都市において無職のまま紅衛兵運動に没頭し、学生の派閥の分裂や争いが起こったため、毛沢東は紅衛兵運動を停止させ、「若者たちは貧しい農民から再教育を受ける必要がある」とした。
 そして、都市と農村の格差撤廃と都市部の就職難を改善させる措置として、1968年からおよそ10年間に1,600万人を超える青年が、都市から内陸部の農村に送られ労働に従事した。これを下放(上山下郷運動)と呼んでいる。行き先は雲南省、貴州省、湖南省、内モンゴル自治区、黒竜江省など、中国のなかでも辺境に位置し、経済格差が都市部と開いた地方であった。

知識人に対する下放

 青少年の中には、「毛主席に奉仕するため」として熱狂的に下放に応じたものもあったが、知識人を思想的に改造し肉体労働の意義を確認するという考え方を前提に、強制的に下放させられた教員や研究者も多くいた。

 中国科学院に例をとると、1969年3月および5月に、中国科学院北京地区の多数の研究者が北京を離れ、寧夏回族自治区陶楽県、湖北省潜江県に下放され、労働に従事することとなった。下放対象となる人物は政治的な「誤り」があり、業務上に「発展の見込み」がなく、活動上「いなくても構わない」とされる人物が選定された。下放場所の選定も懲罰的であって、寧夏回族自治区陶楽県は砂漠に面し塩害が深刻で作物の生産性は低く人影もまれな地であったし、湖北省潜江県は風土病の多発地域であった。

 また、下放を免れた研究者についても、思想改造の試練が続いた。文化大革命は中国科学院の活動そのものを「修正主義の科学研究路線」として批判対象とし、「工場に向き合い、農村に向き合い、学生に向き合う」ことをスローガンとするよう求めた。1970年4月、北京地区の研究者は中国科学院での研究活動をやめて、1,811名が工場や農村へ向かい、190名が33の中学校と8つの小学校へ向かった。本来地理学を究めている研究者が政治を教えたり、植物学の研究者が工場で三極管を製造したり、微生物の研究者が粉末金属精錬に従事したり、遺伝学を研究者がブレーカの開発に従事したり、動物学の研究者が自動車部品を生産したり、という惨状となった。

参考資料

・中国科学院HP  http://www.cas.cn/
・李暁華編『中国科学院六十年(1949-2009)』科学出版社 2009年
・百度HP 『上山下乡』