研究機関などの改編(1966年~)

 研究機関などの改編は、既存の権威の破壊という観点から文革中は度々行われた。

中国科学院の再編

文化大革命は既存の体制や活動を打倒の対象としていたので、科学技術や学術・教育関係の組織運営も混迷を極めた。

 中国科学院を例にとって見ると、最初に動きがあったのは国防関係の研究をしていた部署である。文革の初期、科学研究活動が深刻な影響を受けることを危惧した周恩来らは、1966年12月、「東方紅一号」衛星プロジェクトを所管する研究所や工廠などを人民解放軍の管理下に置いた。

 さらに1967年に入り、国防に関する科学研究の組織化を進め、18の研究院を設立することとなった。リソースを集中させると同時に、文革の混乱の時期において国防部門は比較的安定を保っていたことから、国防に関する科学研究事業や科学技術人材を保護するという目的もあった。
 しかし、国防系の科学研究部門もほどなく政治運動に巻き込まれ、これら研究所も守ることができなかった。調整の結果、実力のある研究所が中国科学院から切り離され、あらゆる学術・科学技術分野をカバーしていた中国科学院の総合的な優位性は失われてしまった。

 1970年6月、中国科学院の革命委員会は共産党中央の了承を得て、傘下の48研究機関を地方へ移転させ、30機関を地方政府と中国科学院の二重指導体制下におき、5機関を産業部門に移管させた。その結果、中国科学院は北京地区の18研究機関を残すのみとなり、中国の科学技術事業に重大な損害をもたらした。

 また同1970年、国家科学技術委員会の業務はほとんど停止し、中国科学院に吸収されてしまった。

 このように文革中は分裂状態に置かれた傘下の研究所も、文革終了後は徐々に中国科学院に復帰していく。また、国家科学技術委員会は分離・独立した。

参考資料

・中国科学院HP  http://www.cas.cn/
・李暁華編『中国科学院六十年(1949-2009)』科学出版社 2009年