はじめに

 蔡元培は、中国の最高峰の大学である北京大学の基礎を築いた。中国の高等教育の歴史は、清朝末期から国民政府時代に始まっている。現在、中国の大学のレベルは格段に高まっており、北京大学や清華大学は世界のトップクラスに位置している。

蔡元培像の前の筆者
北京大学構内にある蔡元培像の前の筆者

生い立ちと清朝政府への出仕

 蔡元培(Yuanpei Cai)は、1868年に浙江省紹興で生まれた。4歳で私塾に入り、1884年の16歳から科挙への挑戦を始め、1894年、26歳の時に清朝の官吏に任ぜられた。しかし戊戌の変法が失敗に終わったため、蔡元培は1898年に、故郷の紹興に帰って中学校の教員となった。

 その後蔡元培は、武装蜂起により清朝の転覆を画策する革命活動に参加し、青島、日本、紹興、上海などを転々としたが、1907年39歳の時に、当時の駐ドイツ公使の援助でベルリンを経由してライプツィヒ大学に行き、心理学、美学、哲学などの講義を聴講するとともに、『中国倫理学史』などの学術書を編纂した。

辛亥革命の成功と北京大学学長就任

 1911年、辛亥革命成功の報を聞いた蔡元培は、4年間のドイツ滞在を終えてシベリア経由で帰国し、翌年1月に南京で設立された中華民国臨時政府の教育総長(教育大臣)に就任した。
 しかし、その後政治の実権が独裁的な袁世凱に移ったことから教育総長の職を辞し、1913年、今度はフランスに行って学術研究に従事し、多くの哲学書や美学書を編纂した。フランス滞在中には華法教育会(華は中国、法はフランス)を組織し、中国人の若者をフランスに呼び寄せ勤労しながら勉学する(勤工倹学)制度を提唱した。周恩来や鄧小平などは、この勤工倹学制度によりフランスに留学した。

 1916年に袁世凱が死去し、亡命していた孫文らが帰国することになり、蔡元培も同年末に帰国し、北京大学の学長に就任した。

蔡元培北京大学学長任命状
北京大学の旧校舎(紅楼)にある蔡元培北京大学学長(校長)任命状

 蔡元培は、陳独秀、李()大釗(りたいしょう)、胡適((こせき))らの著名文化人を北京大学教授として招聘した。陳独秀と李大釗は中国共産党の基礎を築いた人物であり、胡適はノーベル文学賞にノミネートされた文人である。さらに蔡元培は、その後も地質学者の李四光や日本に留学していた文学者魯迅を招くとともに、先進的な学者だけではなく清朝滅亡後も辮髪を押し通す学者なども等しく北京大学の教授として遇した。
 この様に蔡元培は、学術研究の発展と自由思想の校風の確立するため、大学内での思想の自由の原則を徹底させ、あらゆる学派を自由に競争させようとした。蔡元培は女性の権利拡張に関しても積極的であり、1920年2月に3人の女子学生を北京大学の文系講義で傍聴させるよう命じ、その年の秋から正式に女子学生の募集を開始させた。

五・四運動

 第1次世界大戦終了後に開催されたパリ講和会議においてヴェルサイユ条約が決議され、山東半島でドイツが所有していた権益を日本が確保することとなった。
 1919年5月4日、ヴェルサイユ条約の内容とそれに対する政権の対応に強く反発した北京大学の学生は、当時紫禁城の裏手にあった北京大学講堂(紅楼)に集合した。そこから天安門広場に行き他の大学生らと合流し、天安門広場で抗議集会を開いた後、ヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求し、数千人の規模でデモ行進をした。デモ隊はさらに親日派要人を襲撃して重傷を負わせたり、自宅に放火したりして、暴徒化した。これがいわゆる「五・四運動」である。

紅楼
五・四運動の発火点となった紅楼

 政府は北京大学の学生らを多数逮捕し事態の収拾に努めたが、学生側はゼネラル・ストライキを敢行し、亡国の危機と反帝国主義を訴えた。運動は全国的な反日・反帝運動に発展し、各地の学生もこれに呼応した。さらに、労働者によるストライキも全国的な広がりを見せ、同年6月10日には政府が逮捕した学生を釈放せざるをえなくなった。6月28日に中国政府は、ヴェルサイユ条約調印を最終的に拒否した。
 蔡元培を五・四運動の黒幕とにらんだ政府は、学長の罷免や北京大学の廃校の検討を開始したため、蔡元培は大学と学生の安全を守るため自ら学長の辞任を表明した。しかしその後、学生や教職員の政府に対する強い働きかけで学長職を継続している。

 大学が抗日、反日の最初の大きな発火点となったことに、北京大学は強い誇りを持っている。現在の北京大学の創立記念日は5月4日である。これは、1949年に中国共産党が内戦に勝利して北京大学に進駐後、北京大学が五・四運動で果たした役割に鑑み、同年5月4日に中国共産党北京大学指導委員会を設置したことに由来している。

中央研究院院長に就任

 1923年、時の政府と再度衝突した蔡元培は、北京大学学長の辞職願を提出しヨーロッパに渡るも、3年後には中国に帰国し、南京国民政府で大学院院長、司法部長、監察院長などの職に就いた。

 1927年11月、国民政府は、近代的な科学技術や学術研究の重要さを認識し、国の最高研究機関として「中央研究院」を政府直属で設立することとし、傘下に物理、化学、工学、地質、天文、気象、動物、植物など14研究所を設置することを決定した。蔡元培は、この中央研究院の初代院長に就任し、同研究院の基礎固めを行った。中央研究院は新中国建国後、北京で別途設置されていた北平研究院と一緒に接収され、中国科学院の基礎となった。

 1937年、北京郊外において盧溝橋事件が起こり、日中戦争が勃発した。日中戦争は当初日本軍優位に進み、日本軍は上海、南京など多数の都市を占領し、国民政府の首都は南京から西部の重慶に移転された。このため、中央研究院も戦火を逃れて中国大陸の西にある昆明、桂林、重慶等へ疎開することとなり、蔡元培はその指揮を取った。

 日中戦争中の1940年3月、蔡元培は香港で死去している。享年72歳であった。

参考資料

・中目威博『北京大学元総長 蔡元培―憂国の教育家の生涯』 里文出版 1998年
・蔡元培『愛国不忘読書、読書不忘愛国』 中国文史出版社 2019年
・鄭連根『兼容並蓄長者風 蔡元培』 斉魯書社 2013年