はじめに
武漢協和医院 (Wuhan Union Hospital)は、英国キリスト教団体により1866年に湖北省漢口(現在の武漢市)に開設された漢口仁済医院が母体である。現在は、華中科技大学同済医学院の臨床医院の1つとなっている。
1. 名称
○中国語表記:华中科技大学同济医学院附属协和医院 武汉协和医院
○日本語表記:華中科技大学同済医学院附属協和医院 武漢協和医院
○英語表記:Wuhan Union Hospital, Tongji Medical College of HUST
2. 所管
湖北省武漢市に本部を有する華中科技大学(华中科技大学、Huazhong University of Science and Technology、HUST)の、医学部に当たる同済医学院(同济医学院、Tongji Medical College)の臨床医院としての位置づけを有する。
華中科技大学の同済医学院は、他にいくつかの臨床医院を有しており、それらの中では武漢協和医院と並んで武漢同済医院が有名であり、医療や研究でのレベルが高い。
3. メインの所在地
武漢協和医院のメインの建物は、武漢市礄口区解放大道1277号にある。武漢市内の旧漢口の部分にあり、医学高等教育機関である同済医学院の敷地の南側に位置している。また、同じ同済医学院の臨床医院である武漢同済医院も解放大道にある。
湖北省は、中国内陸部で中央に位置する省である。淡水湖として2番目に大きい洞庭湖の北にあるため「湖北」という名称がつけられた。
武漢協和医院のある武漢市は湖北省の省都であり、長江と支流の漢江の合流地点に位置し、北京から南に約1,100キロメートル、上海から西に約700キロメートルの位置にある。人口は約1,200万人で、湖北省では最も多い。
清代までは武昌が中心都市であり、その近辺に漢陽、漢口が発展し、武漢三鎮と呼ばれていた。国民政府の時代に、3つの地域が合体して武漢と呼ばれるようになった。
4. 沿革
(1)英国キリスト教団体設立の医院が母体
武漢協和医院の母体は、1866年に英国人宣教師グリフィス・ジョン(Griffith John、杨格非)が湖北省漢口に設置した西洋医学による診療所「漢口仁済医院(汉口仁济医院)」が母体である。
仁済は、「仁愛済世(仁爱济世)」に由来し、この世を人々への愛により癒やす」という意味である。なお、19世紀後半頃に設置された西洋医学による医院には、仁済医院の名称が好んで用いられ、現在でも中国の各地にいくつかの仁済医院が存在している(下記7.特記事項参照)。
グリフィス・ジョンは、1831年に英国ウェールズに生まれた宣教師であり、太平天国の乱時代の1855年に中国に入り、キリスト教布教活動に従事した。ジョン宣教師は、漢口仁済医院設立の他、新約聖書などを中国語に翻訳したことでも有名である。
(2)協和医院に発展
漢口仁済医院は、1911年の辛亥革命後も少しずつ発展していたが、1928年に同じ英国の別のキリスト教団体が漢口に設置していた「漢口普愛医院(汉口普爱医院)第二分院と合併し、名称を「漢口協和医院(汉口协和医院):Hankow Union Hospital」と変更した。
1937年に始まった日中戦争時にも、漢口協和医院は医療活動を続行したが、日本軍の攻撃で深刻な被害を受けている。
(3)同済医学院の臨床医院に
日本軍の敗戦により日中戦争が終了し、漢口協和医院は中国政府に接収され、大陸西部への疎開から戻った武漢大学の医学院と連携した病院となった。
新中国建国後に実施された大学・学部の調整政策である院系調整により、上海から武漢に同済大学医学院が移転し、武漢大学医学院と合併して中南同済医学院となった。これに対応して協和医院は、中南同済医学院附属の臨床医院となった。
中南同済医学院はその後、1955年に武漢医学院に、さらに1985年には同済医科大学に改称したが、協和医院は附属の臨床医院の地位に留まった。なお、1985年に同済医科大学附属協和医院となった際、別称を武漢協和医院とした。
同済医科大学は、2000年に華中理工大学及び武漢都市建設学院と合併し、華中科技大学同済医学院となった。これに伴い、協和医院も華中科技大学同済医学院の臨床医院となった。武漢協和医院の別称は引き続き使用されている。
5. 分院の有無
武漢協和医院のHPによれば、同医院は本院以外に次の3つのサイトを有している。
○腫瘍センター(肿瘤中心):湖北省武漢市江漢区鄔家墩156号
○車谷院区:湖北省武漢市蔡甸区神竜大道58号
○金銀湖院区:湖北省武漢市東西湖区環湖七路53号
さらに武漢協和医院のHPによれば、同医院は次の6つの連携医院を有している。
○協和深圳医院
○協和江南医院
○協和江北医院
○協和東西湖医院
○協和洪湖医院
○協和武漢紅十字会医院
6. 規模など
(1)規模
武漢協和医院のHPによれば、、同医院の規模は分院も含め、次の通りである。
○病床数:全体で約6,000床
○スタッフ:研究スタッフを含め約7,750名
○その他:年間外来患者数約670万名、退院者数約30万名、手術件数約12万件
(註)病床数を日本と比較すると、2021年7月時点で日本最大のベッド数を有するのは愛知県豊明市にある藤田医科大学病院の1,435床であり、東京では東京大学附属病院が1,226床を有し日本第3位である。
東京大学付属病院の職員数を見ると、全体で4,273人(2023年4月現在、短時間有期雇用職員等を含む)となっている。
東京大学付属病院の外来患者数は、2023年一年間で64.1万人、救急患者数1.2万人、手術件数は1.2万件、新入院患者数は2.7万人である。
(2)評価
復旦大学の医院管理研究所による中国医院ランキング(2022年)での評価は次の通りである。ランキング全体は、こちらを参照されたい。
○総合順位:満点が100点のところ、36.296点で全国9位 1位は北京協和医院で95.301点
○医療評価:満点が80点のところ、21.863点で全国10位 1位は北京協和医院で80点
○学術評価:満点が20点のところ、14.433点で全国4位 1位は四川大学華西医院で20点
7. 特記事項~他の仁済医院
武漢協和医院の前身は漢口仁済医院であるが、中国国内には重慶仁済医院、鄭州仁済医院、瀋陽仁済医院など、いくつかの仁済医院がある。その中で最も著名なものが、現在上海交通大学医学院の臨床医院となっている仁済医院である。
この仁済医院の母体は、1844年に英国人宣教師と華僑により設置された「中国医館」である。1840年に始まったアヘン戦争は、1942年に英国の勝利となり、清は南京条約を結んで賠償金を支払うとともに、上海を自由貿易港として開港した。仁済医院は、英国のキリスト教宣教の拠点として設立されたものであり、その後租界地に組み込まれていった。
1860年代に仁済医院と改名した。その後も英国人などからの寄付もあって徐々に総合医院に発展したが、1941年の太平洋戦争開始により日本軍に占領された。
1952年に設置された上海第二医学院の臨床医院の位置づけに変更された。現在は、上海交通大学医学院の臨床医院となっている。
復旦大学医院ランキングによると、仁済医院は全国で16位にある。
参考資料
・華中科技大学同済医学院附属協和医院HP https://www.whuh.com/HospitalOverview/yyjj.htm
・華中科技大学同済医学院HP http://www.tjmu.edu.cn/xygk/xyjj.htm
・上海交通大学医学院附属仁済医院HP https://www.renji.com/
・東京大学付属病院HP https://www.h.u-tokyo.ac.jp/