はじめに

 周仁は、冶金学者、セラミック学者であり、国民政府時代の中央研究院工程研究所の所長や、その後継機関である中国科学院冶金セラミックス研究所や冶金研究所などの所長を45年にわたって務めた。

周仁の写真
周仁 微系統所のHPより引用


生い立ちと教育

 周仁は、1892年に江蘇省江寧に生まれた。父は清朝で電気関係を担当した官吏であり、祖父は杭州の新安江地区の県令であった。しかし、周仁が一歳の時に父と祖父が亡くなり、以降親戚を頼って成長した。中学校の頃、上海の叔父の家で古代中国の陶磁器に触れ、深い感銘を受けている。

 1908年に江蘇省の南京に出て江南高等師範学校に入学した。同校では文学と数学が得意であった。この時期清朝は辛亥革命直前であり、政府の腐敗、外国勢力による中国支配、戊戌の変法の失敗などがあり、周仁は国を強くし人民を豊かにすることが重要と考え、強い国造りにはまず鋭い武器が必要だと信じるようになった。

米国コーネル大学に留学

 周仁は、1910年に江南高等師範学校を卒業し、庚款留学生制度により米国に留学することになった。米国東部にあるコーネル大学機入学した。入学した。コーネル大学では勉学に励む傍ら、同じ留学生で後に植物学者となった秉志ら中国人仲間とともに学会を組織し、雑誌「科学」を刊行した。

 周仁は、1914年にコーネル大学学部を卒業し、同大学の大学院に進学した。大学院では冶金学を専攻した。中国の再興のためには鋭い武器が必要という信念から出たものであり、鋭い武器を作るためには鋼が必要であるという理由であった。

米国から帰国

 周仁は、1915年にコーネル大学大学院から修士学位を取得して卒業し、中国に帰国した。帰国した周仁は、米国で学んだ冶金学の知識を生かし、中国での鉄鋼生産を夢見たが、残念ながら資金不足や周囲の無理解などで、その努力は直ちには実を結ばなかった。

 周仁は、1917年に母校である南京高等師範学校(現南京大学)の教員となり、機械工学を教えた。この時期の周仁の教え子に、著名な物理学者となった呉有訓厳済慈がいる。

 周仁は、1922年に南洋公学(現上海交通大学)に転じて機械工学科長や教務長となった。

 周仁は、1925年に聂其壁と結婚する。聂其壁は、地方政治家を父に持ち、母・曾纪芬は清朝末期の大政治家で科学者などの庇護者でもあった曾国藩の末娘であった。二人の結婚の時点では新婦・聂其壁の父は亡くなっていたが、兄・聂云台は上海経済界の有力者であったため、結婚式には多くの上海の著名人も参加し、宋家の三姉妹の一人で後に蒋介石夫人となる宋美齢も出席し、新婦の付き添い役を務めた。

周仁と妻の聂其壁の写真
周仁(左)曾纪芬(中央)聂其壁(右)百度HPより引用

陶磁器と鉄鋼生産の開発

 1925年に国民政府が樹立され、同政府は科学技術振興を目指して、1927年に中央研究院を設立した。この中央研究院は、1928年上海に工学研究所を設立し、その所長に周仁が任命された。
 以降、同研究所は名称を何度か変更するが、周仁は一貫して所長の任にあり、亡くなった1973年まで所長を務めている。

 周仁が中央研究院の工学研究所で目指したのは、国内の古い産業の改善と新しい産業の創出であった。周仁は、当時の国情と資金・物資調達状況を勘案し、陶磁器と鉄鋼生産の実験場を設置することとした。陶磁器の実験場は南京に、鉄鋼生産の実験場は上海に建設することとした。

 陶磁器実験場については、1928年に建設を終了し、近辺の湖南省や江蘇省から陶工を招いて窯を作り、古代中国の磁器製作技術を研究して、それを復興させる研究を進めた。またそれと並行して、中国陶磁器焼成の技を解き明かすべく、南宋時代の官窯跡を発掘して古代磁器を収集して科学的分析を行った。さらに釉薬の研究を進め、青釉や赤釉を再現した。
 1931年には、工業用磁器や機械製日用磁器の技術研究も開始し、中国の工業用磁器や日用磁器産業の発展に尽力した。
 1936年頃、周仁は磁器の都である景徳鎮に何度も出向いて調査を行い、後に『江西省景徳鎮磁器の製造方法と改良提案』という本を執筆している。

 一方鉄鋼生産実験場であるが、米国からアーク炉、旋盤その他の金属加工設備などを輸入し、さらに焼鈍炉、加熱炉、鍛造ハンマー、金属組織・化学分析機器などもそろえて、1929年に完成させた。そして、米国から化学試薬や製鉄材料を購入して炉の試験を進め、1930年に鋼鉄製造研究が開始された。
 1932年の時点では、クロム・ニッケルを含む特殊鋳鉄、高シリコン鋳鉄、ステンレス鋼、耐酸鋼、磁器扉用鋼などの生産や試作品開発が出来るようになった。このような鋼鉄は、それまで国内で生産不可能で輸入に頼るしかなかったが、この鉄鋼生産実験場での生産により一部代替可能となった。

 さらに、周仁は1934年に、上海の綿製品事業者と協力して、工学研究所内に綿糸紡績と染色の実験場を設立した。当時繊維産業で高い水準に合った日本を訪れ、日本の繊維産業を視察している。

日中戦争と西部への疎開

 1937年に日中戦争が勃発すると、日本軍は一か月後に上海を占領したため、中央研究院の工学研究所も業務停止を余儀なくされた。翌1938年に工学研究所は雲南省昆明への疎開を決定し、書籍、資材などを携えて、香港経由での移動を開始した。道程は困難を極め、多くの器具、設備、電気炉、試験機などが損失してしまった。

 しかしそれでも、周仁は国のために尽くすべく、昆明の地で鉄鋼生産のための基地を建設し、上海で進めた様々な合金鋼、工具鋼、耐酸性ステンレス鋼、タングステン鉄合金に関する技術開発を継続した。できあがった鋼や機器は軍に供出し、抗日戦争に貢献した。

 1945年に日本が太平洋戦争に敗北し、中国大陸から日本軍が撤退すると、周仁らは昆明から上海に戻り、工学研究所の再建を目指すが、国共内戦のため思う様に進まなかった。1949年には共産党が国民党に勝利すると、周仁は台湾への移動を友人に勧められたが、工学試験所の再建を念頭に拒否し、上海に留まった。

新中国で鉄鋼生産

 中華人民共和国建国前夜の1949年7月、中央研究院などを接収して中国科学院を設立するための準備委員会が北京で開催され、周仁はこれに招待されて出席した。
 1949年10月に新中国が建国し、同月に中国科学院が設置されると、中央研究院工学研究所は中国科学院直属の工学実験館となり、周仁は初代の館長となった。

 新中国の建国時点では、あらゆる場所で鉄鋼が必要となり、国内の鉄鋼生産を速やかに回復し発展させる必要があった。周仁は、中国共産党や新政府の依頼を受けて、鞍山鋼鉄、武漢鋼鉄などの鉄鋼所での技術指導を行った。
 周仁は、これらの製鉄所では機械的強度の低い銑鉄しか生産できないことを知り、戦時中から戦後にかけて米国で開発されたダクタイル鋳鉄技術に着目し、その技術開発に成功した。周仁らの技術は当時の国際先進レベルに達し、自動車やディーゼルエンジンのクランクシャフトに採用された。

 1953年に、工学実験館は冶金セラミックス研究所(冶金陶瓷研究所)と改名され、周仁は引き続き所長を務めた。

 この時期に周仁が取り組んだのは、内モンゴルの包頭から産出する鉄鉱石の利用技術である。包頭の鉄鉱石はフッ素と希土類を多く含む珍しい鉄鉱石である。フッ素含有量が多いため、通常の精錬方法は使用できなかった。また、希土類を多く含むためこれを回収することも期待された。周仁はこの技術開発を依頼され、研究所の部下と共に取り組み、見事高炉の建設に成功した。

周恩来の要請で古代陶磁器研究

 1953年、周恩来総理は首相は軽工業部に対し、古代中国磁器の研究に重点を置くよう指示した。衆総理がこの指示を出したのは、新中国となって外交が活発化し外国使節の中には古代中国の陶磁器に憧れる人もいたが、うち続いた戦乱もあって良い陶磁器を入手するのが難しいと聞いたからであった。軽工業部は中国科学院院長の郭沫若に相談したところ、上海にかつて古代の陶磁器を研究した周仁という人物がいると伝えたのである。

 周総理の要請を受けて、周仁は国家チームを率いて何度も景徳鎮を訪れ、古窯跡の遺跡や瓦礫の中から古代磁器を発掘・収集した。61歳と高齢にもかかわらず、高温の窯の頂上に登って火の状況を観察・分析した。また、南の浙江省龍泉まで出向き、不毛の丘陵や急斜面にある古窯跡を探索した。

 周仁の指導の下、研究グループは現代の科学技術手段を用いて、歴史ある名品の化学分析と科学的鑑定を行い、各地の原材料の調査と分析を行って実験を重ね、伝統的な特徴を備えた高級磁器の試作に成功した。精巧、透明、優雅で美しい古代中国陶磁器の再現に成功し、中には古代磁器のレベルを超えるものもあった。

 1959年、中国科学院冶金・セラミックス研究所は、冶金研究所および上海珪酸塩化学・工学研究所(硅酸盐化学与工学研究所)に分離されたが、周仁はその二つの研究所の所長を兼任した。

 周仁は高齢となり、網膜剥離を患ったため、自宅で療養せざるを得なかったが、それでも中国の各地域の有名な磁器を収集し、それを基にして磁器の生産を復興する作業の指揮を執った。

文化大革命の試練と晩年

 1966年に文化大革命が始まると、周仁は反動分子として迫害と拷問を受ける。周仁は肉体的な迫害には黙って耐えたが、長年かけて収集してきた陶磁器のコレクションが文革革命派によって「封建主義、資本主義、修正主義」のゴミだとして廃棄されたことに強い憤りを表明した。

 文化大革命中の1973年、周仁は脳血栓症により上海で亡くなった。享年82歳であった。文革はその後四人組の逮捕で終了し、周仁は亡くなって5年後の1978年に名誉回復した。

参考資料

・上海微系統所HP 周仁先生传略  https://sim.cas.cn/sq90/qcjy2018/201806/t20180614_5026783.html