はじめに

 曾国藩は、アヘン戦争やアロー戦争さらには太平天国の乱を経て、衰えつつある清朝を復活させるための改革であった洋務運動の主導者として、科学技術や高等教育の振興に最も尽力した。

曾国藩の写真
曾国藩

生い立ち

 曾国藩は1811年に、湖南省湘郷で農家の長男に生まれた。当時の清朝の皇帝は、乾隆帝の15男である嘉慶帝である。嘉慶帝は1796年に即位しており、清を大帝国に築き上げた康熙帝(1661年~1722年)、雍正帝(1722年~1735年)、乾隆帝(1735年~1796年)の治世という最盛期が過ぎ、西欧列強の侵略と内乱による衰退が始まろうとしていた時代であった。
 曾国藩は、幼い時から勉学に励み、6歳から私塾に入学した。8歳で四書五経を習い、14歳で「周礼」、「史記」などを読んだという。16歳で科挙の前段階試験である童生試に合格し、1838年27歳で科挙の最終最高試験の殿試に合格して、進士の称号を賜った上で軍機大臣に仕えた。

帰郷と太平天国の乱

 その後順調に出世を重ね、文官の任免・評定・異動などの人事などを司る吏部の副長官である左侍郎の職にあった1852年41歳の時に母親が死去したため、当時の慣習に従って湖南省に帰郷し喪に服することになった。

 曾国藩が帰郷する前年の1851年に、洪秀全を天王としキリスト教の信仰を紐帯とした太平天国の乱が勃発した。清の正規軍たる八旗がその鎮圧に当たったが、建国以来長年にわたる貴族化により弱体化していた八旗は連戦連敗であり、洪秀全率いる反乱軍は曾国藩が帰郷した翌年の1853年3月に南京を陥落させて天京と改名し、太平天国の王朝を立てた。
 危機感を抱いた清朝は、中国各地の実力者に対し「郷勇」と呼ばれる臨時の軍隊の徴募を命じ、太平天国の乱の平定に当たらせることとした。喪に服していた曾国藩は、故郷の湖南省一帯で師弟、親戚、親友などの人間関係を頼りに「湘軍」を組織し、太平天国の鎮圧を目指した。

 湘軍と太平天国軍との戦いは熾烈であり、戦線は数年にわたり膠着状態となった。曾国藩は1962年に、この局面を打開すべく自らの幕下にあった李鴻章に命じて「淮軍」を設立させた。また、当初中立の立場にあった英国やフランスなどの列強は、アロー戦争の講和条約である1860年の北京条約締結後に清朝に味方することとし、外人部隊の編成や西洋人将校の下での中国人傭兵を集めた「常勝軍」を編成した。

 曾国藩率いる湘軍、李鴻章率いる淮軍、西欧列強の指揮下にあった常勝軍などの猛攻を受け、1863年以降太平天国は無錫・蘇州・杭州を次々に失い、天京(南京)は孤立した。1864年6月、洪秀全は栄養失調により病死し、湘軍の猛攻に遭った天京は翌7月陥落して太平天国は滅亡した。

洋務運動を主導

 1861年に恭親王奕訢えききんが開始を宣言したとされる洋務運動は、西欧の近代科学技術を導入して清朝の国力増強を目指した。洋務運動では「中体西用」というスローガンが有名であり、中国の儒教を中心とする伝統的な学問や制度を主体(中体)として、富国強兵の手段として西洋の技術文明を利用すべき(西用)との主張である。曾国藩は洋務運動を主導し、現代にも残る業績を残した。
 初期の洋務運動の目的は太平天国の乱を鎮圧することであり、大量の銃砲や軍艦を輸入するだけでなく、西欧の近代軍備を自前で整備することであった。曾国藩は1861年に、弾丸・火薬・銃・蒸気機関などを製造するため安徽省安慶に「安慶内軍械所」を設置した。安慶内軍械所は、西洋からの技術移転なしに設立された最初の軍事工場で、砲弾や武器などを作り太平天国軍との戦争を支えた。

 曾国藩は人材の育成にも力を注いだ。1862年に恭親王の建議により、外国語ができる人材の育成を目的として「京師同文館」が設立された。成立当初は、教授全員を外国人宣教師たちに依頼していたが、曾国藩は徐々に優秀な中国人の登用を図り、李善蘭などを同文館の教授として推薦している。同文館では教育の他、翻訳作業も行い、1873年には出版会を開いた。これは中国で最も早い大学出版会であり、李善蘭らが中心となり数多くの本を翻訳して出版した。京師同文館は1900年に義和団の乱で閉鎖され、1902年に京師大学堂(現在の北京大学)に吸収された。

 洋務運動に対する曾国藩のもう一つの重要な貢献は、優れた子供達を米国に派遣することを決断したことである。曾国藩は、容閎が提案した「留美幼童」と呼ばれた中国初めての海外留学生派遣政策に賛同し、李鴻章とともに清朝政府に強く働きかけ、1972年から同事業を開始させた。

 現代中国では、洋務運動に対する見方は非常に厳しい。とりわけ日清戦争の黄海海戦や威海衛の戦いにおいて、洋務運動の華ともいうべき北洋艦隊が日本の連合艦隊に惨敗したことから、技術的な面のみを取り込んで旧弊な政治制度・軍制を守ろうとし、合理主義などの西欧流の近代思想を取り込むことに失敗したと評価される。

晩年

 太平天国の乱の平定に活躍し、洋務運動を主導した曾国藩であったが、晩年にはその栄光に陰りも見られた。1865年、太平天国の乱と同時期に清に反抗した華北の武装勢力である捻軍の討伐を命じられたが、成果を挙げられず1866年に李鴻章に交代させられている。また、1870年に天津で発生したキリスト教排撃運動(天津教案)の処理を任され、フランスなどと交渉の結果、賠償金の支払いと謝罪により戦争を回避したものの、朝廷と民衆はこの対処に不満を抱き、曽国藩の名声は大いに傷ついた。
 曽国藩は1872年に、南京で散歩中脳溢血となり、60歳で死去している。後日遺骸は湖南省の長沙に移送され、葬られた。

 従来中国では曾国藩の人気は高くない。漢民族出身の洪秀全が異民族である満州族の帝国である清を滅ぼそうとしたのに、漢民族の出である曾国藩がこれを鎮圧したことにも由来すると言われている。しかし、曾国藩はすでに述べたとおり科学技術や高等教育での貢献は大きなものであった。
 何よりも大変優れた人格の持ち主であったと考えられ、その証左として曾国藩が座右の銘としたと言われている「四耐四不訣」を紹介したい。四耐四不訣とは、「耐冷、耐苦、耐煩、耐閑、不激、不躁、不競、不随、以成事」であり、「冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え、激せず、躁がず、競わず、随わず、以て大事を成すべし」と読み下すものである。「訣」という語は、秘伝や秘訣などを意味する。

参考資料

・叢小榕『太平天国を討った文臣 曾国藩(日本語)』総合法令、2000年
・京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター『中国近代の巨人とその著作―曾国藩、蒋介石、毛沢東(京大人文研漢籍セミナー)』研文出版、2019年
・並木頼寿・井上裕正『世界の歴史19 中華帝国の危機』中央公論社、1997年