庚款留学生制度の開始と清華学堂の設置
庚款留学生制度は、義和団事件による賠償金を米国が返還することにより設置された、中国人学生の米国への留学制度である。また庚款留学生の準備教育のために設置されたのが清華学堂であり、現在の清華大学の前身である。
庚款留学生制度の開始(1910年)
1900年の義和団事件では西太后が外国列強に抵抗する立場をとったため、北京占領の憂き目を見、自らも西安に逃れることとなった。和平のために結ばれた北京議定書で、清朝政府は当時の国家予算の数倍にあたる賠償金の支払いを約束させられた。
この賠償金の支払いが清朝政府を苦しめることになり、国際的にも莫大な賠償金の支払いは過酷すぎるとの意見が出て、米国は兵士の派遣費や事変で被害を受けた米国人への損害賠償金を除いて、条件付きで残りの賠償金を中国に返還することとした。
その条件というのが、返還される賠償金を中国人学生の米国への留学費用に充てることであった。1908年に賠償金返還法案が米国議会で承認され、セオドア・ルーズベルト大統領の署名を経て、1909年に返還が正式に決定された。
この決定を受けて政府により開始されたのが、「庚款留学生」の制度である。清政府は直ちに留学生の募集と選抜を実施し、1910年から米国に留学生の派遣を開始した。
辛亥革命で混乱するも、新政府により庚款留学生制度が再開され、以降多くの人材が米国に渡った。中華民国の時代や新中国初期の時代を支えた科学者はほとんどがこの庚款留学生制度の恩恵を受けており、代表的な例としては、銭学森(宇宙・ロケット)、侯德榜(化学工学)、竺可楨(気象学)、茅以升(橋梁工学)、張鈺哲(天文学)などがいる。
洋務運動の際の留美幼童政策による留学生と違い、庚款留学生は1890年代頃に相次いで設立された国内の学堂で英語、数学、物理などの基礎知識を身につけたうえで渡米しており、留学の成果は遥かに大きなものとなった。
清華学堂の設置(1911年)
また1911年に、清朝の庭園であった清華園の敷地の一部に、中国人学生の米国留学準備のための学校として「清華学堂」を設置した。これが現在の清華大学の起源となっている。辛亥革命により清華学堂は一時的に閉鎖されたが、その後新政府は1912年に返還金の留学費用への充当を再開するとともに、清華学堂の名称を「清華学校」と改めた。
1911年から1925年までに清華学堂を通じて米国に留学した学生は、総勢1200名に達したという。
参考資料
・宝鎖『清末中国の技術政策思想~西洋軍事技術の受容と変遷』臨川出版 2020年
・百度HP 庚款留学生
・清華大学HP https://www.tsinghua.edu.cn/index.htm