はじめに

 范旭東(范旭东)は、日本の京都帝国大学で工業化学を学び、国民政府の時代に製塩やアルカリ製造の事業を中国で興した実業家である。

范旭東の写真
范旭東  百度HPより引用

生い立ち

 范旭東(Xudong Fan)は、1883年に湖南省長沙に生まれた。祖父は地方政治家であり、父は私塾を開いていた。范旭東が6歳となった1889年に相次いで亡くなり、母や親戚の助力で基礎教育を受けた。

 8歳違いの兄・范源濂は、中華民国時代の教育家・政治家として著名な人物である。范源濂は、地元長沙にあった時務学堂を卒業すると、清末の政治家・梁启超に師事して1898年に変革運動である戊戌の変法に参画したが、西太后のクーデターにあって戊戌の変法は失敗に終わり、日本に亡命し東京高等師範学校や法政大学などに学んだ。辛亥革命が成功すると、新政府で教育総長や北京師範大学校長などを務めた。

范旭東の兄・范源濂
范旭東の兄・范源濂 百度HPより引用

兄に連れられ日本に留学 

 兄・范源濂は戊戌の変法失敗後に日本に亡命したが、范旭東は長沙に残り基礎教育を続けた。その後兄は1900年の義和団事変の際に中国に帰国し、自立蜂起の企てに参加したが再び失敗したため、今度は兄弟で日本に亡命した。范旭東は当時17歳であった。

 范旭東は、東京で日本語を学習した後、1905年に岡山にあった第六高等学校に入学し、1908年に同校を卒業すると今度は京都帝国大学に進学した。京都帝国大学では工業化学を専攻し、1910年に卒業して同大学の職員となった。

辛亥革命後に帰国

 1911年に辛亥革命が成功し清朝が滅亡すると、范旭東は帰国し新政府に出仕した。しかし、新政府の混乱に嫌気が差し、二か月で下野した。

 その後、新政府が少し落ち着きを見せたところで、范旭東は政府の要請を受けて1913年に欧州を訪問し、塩の生産について視察した。当時中国では、国内に豊富な塩資源があるにもかかわらず、精製していない不純物を多く含んだ塩を使用していて、土を食べる民族(食土民族)と揶揄されていた。

 范旭東は1914年に、欧州訪問の成果を活かして、天津に久大製塩工場(久大精盐厂)を建設した。そして、それまで租界地などで使用されていた外国産の塩に取って代わる、国産の塩を製造販売した。ブランド名は「海王星」と命名され、年間6万2500トンの生産量を誇るまでになった。

 ちょうどその頃、第一次世界大戦が始まり、中国が欧米からの輸入に全面的に依存していた酸、アルカリ、染料などの化学製品の供給が途絶えた。范旭東は、このうちアルカリ製品に目を付け、1917年に自宅の庭で部下の技術者と共に、石灰窯とアンモニアソーダ法アルカリ製造装置を建設し、模型試験を行った。これが成功したため、范旭東は、政府にアルカリ製造会社の設立許可を願い出て、1918年に永利ソーダ会社(永利制碱公司)を設立し、自ら総経理に就任した。

侯德榜の入社

 范旭東率いる永利ソーダ会社は、工業規模でのアルカリ製造工場の建設を天津で進めた。丁度その時期の1921年に、永利ソーダ会社に技師長として入社してきたのが、米国MITやコロンビア大学で工業化学を学んだ侯德榜であった。

侯德榜の写真
侯德榜 百度HPより引用

 永利ソーダ会社は、苦労の末1926年にアルカリソーダの国産化に初めて成功し、米国のフィラデルフィア万国博覧会に同社の製品を出展して金賞を受賞した。さらに、価格低減化の開発を進めることにより、中国市場での国産品の参入に成功した。

 天津での成功を元に、永利ソーダ会社は南京にも工場を建設し、国産化の拡大に力を注いだ。1934年に永利ソーダ会社は、化学品全般を扱う総合的な会社である永利化学工業となった。

日中戦争で大きな損害を受ける

 1937年に日中戦争が勃発し、日本軍は天津や南京を侵略した。日本軍は、アジア屈指と言われた永利化学工業の工場を軍事利用しようと范旭東らに協力を強要したが、范旭東は断固拒否した。しかし、結局日本軍に工場を占領されたい、日本軍の爆撃に遭ったりして大きな損害を被った。残ったのは南京の工場であったが、これも日本軍が占拠しようとしたため、范旭東らは同工場の主要機器を撤去し四川省に移動して、永利川西化学工場を設置した。

 日中戦争中は、塩やアルカリ製品の工場を四川省などに設置し、南京から重慶に移動した国民政府を助けた。また、この時期に、范旭東の技術的支えであった侯徳榜が、より低廉で効率の良いソーダ製造技術として、従来広く用いられているソルベイ法と合成アンモニア法との結合により、現在「侯徳榜法(Hou's process)」と呼ばれている合成法を開発した。

 日中戦争が終了し、戦後処理を話し合う重慶会談が8月28日から蒋介石と毛沢東が参加して開かれた。9月17日に、范旭東は、毛沢東と面談している。しかし、その直後の10月4日に、范旭東は過労により急死した。急性肝炎であったと伝えられている。

参考資料

・紅网HP 敢为人先,兼济天下,范旭东实业兴邦的“创”与“新”丨家传·湖湘家风故事⑰
https://baijiahao.baidu.com/s?id=1814870879328031949&wfr=spider&for=pc