はじめに
陳竺(陈竺、Chen Zhu、1953年~)は、文革で下放して裸足の医者となったのち、上海第二医学院(現在の上海交通大学医学院)やパリ第七大学を卒業し、中国科学院副院長や国務院衛生部長(現在の国家衛生健康委員会主任、国務大臣に相当)を歴任した血液学者である。

両親はともに著名な内分泌医学者
陳竺の両親は、ともに著名な内分泌医学者であった。
父・陳家倫(陈家伦、1926年~2020年)は、湖北省漢口(現在武漢市の一部)に生まれ、1950年に震旦大学(上海第二医学院を経て現在の上海交通大学医学院)を卒業して、同大学の臨床医院であった広慈医院(广慈医院、St. Marie Hospital、現在の瑞金医院)に勤務した。内分泌代謝の研究で成果を挙げた。
母・許曼音(许曼音、1923年~2014年)は、江蘇省灌雲に生まれ、夫である陳家倫と同様、1950年に震旦大学を卒業して広慈医院に勤務した。専門も夫と同様、内分泌代謝の研究であった。

文革で下放
陳竺は、1953年に江蘇省の鎮江に生まれた。1965年末から文化大革命が開始され、1966年に中国全土に広がって社会・経済活動が混乱し、教育もほとんどストップしてしまった。
陳竺は1970年に、若者の思想闘争や思想改造の名目で開始された下放(上山下郷運動)に志願して、内陸南東部・江西省の僻地に派遣され、農村での労働に従事した。
陳竺は、昼は農作業を行い、夜はランプを頼りに医学者である両親から送ってもらった医学書を勉強した。
裸足の医師に
1974年、21歳になった陳竺は「裸足の医者(赤脚医生)」となった。
裸足の医者は、中国の文革の時期に存在した制度であり、中国の広大な農村地帯における医療・医薬品不足に対応するものである。裸足の医者は、一定の医学的知識と能力を持ち、村政府により任命されて、農業や他の職業を持ちつつ、空いた時間で診察・治療などの医療行為を行った。
村人たちは陳竺を「陳先生」と呼び、ちょっとした病気になれば彼のところにやってきた。陳竺のこの働きを評価した地元の政府や共産党は、1975年に彼を同地の衛生学校である「江西省上饶地区卫生学校」への入学を推薦してくれたため、陳竺は本格的に医学の勉強を始めることができた。卒業後は教師として留まり、医学文献の翻訳などに取り組んた。
上海第二医科大学を卒業しフランスに留学
文化大革命は1976年末の四人組逮捕により終了し、大学や中国科学院などの活動も徐々に回復した。
陳竺は、専門学校卒業の翌年である1978年に、両親が勤務する上海第二医学院付属瑞金医院で研究するよう勧められ、著名な血液学者である王振義を紹介された。王振義は1924年上海生まれで、1948年に震旦大学を卒業し広慈医院(現在の瑞金医院)の内科医となっており、陳竺の両親にとって震旦大学や広慈医院内科の先輩であった。
王振義は、陳竺の作成した診察記録が綿密かつ正確であったことから、陳竺を上海第二医学院の大学院入試を受験するように勧めた。陳竺は、王振義の勧めに応じて受験し、600人以上の受験者の中で2番の成績で見事合格した。
陳竺は1981年に上海第二医学院の修士課程を卒業し、血液学を専門とする内科医師として同大学附属瑞金医院に勤務した。
陳竺は、1984年に政府からフランスに派遣され、パリ第七大学に留学し、サン・ルイ病院血液学センター研究室で分子生物学を専攻した。そして1989年に同大学から博士学位を取得し、帰国した。
母校に戻り、血液学で成果
上海に戻った陳竺は、上海第二医科大学と改名していた母校に帰り、血液学研究所分子生物学実験室の主任となった。当時の同大学学長は、恩師・王振義であった。

陳竺は、フランスでの経験を踏まえ、白血病がん遺伝子と急性前骨髄球性白血病(APL)に対するオールトランスレチノイン酸/三酸化ヒ素誘導分化やアポトーシス療法に関する研究を行った。また、中国ヒトゲノム・プロジェクトの企画、調整に関与した。
これらの成果により、陳竺は1995年に中国科学院の院士に当選した。
中国科学院副院長を経て衛生部長に
陳竺は1995年に、上海第二医科大学附属瑞金医院血液学研究所長に就任した。さらに2000年、陳竺は血液学研究所長を兼務のまま、中国科学院の副院長に就任した。
このころ、中国社会を大きく揺るがした食品の安全性問題が発生した。2001年にWTOに加盟し経済が発展するにつれ、都市部の消費者を中心とした国民が生活の質への向上を強く求めるようになった中で、人体に健康被害をもたらす有害な食品が多数流通し、食品汚染問題が多発するようになった。
中国政府は、2003年3月に「食品安心プロジェクト」や「食品安全行動計画」を策定したが、相次ぐ事件の発覚で国民の不安は収まらなかった。
中国政府は2007年6月、このような状況に対処するため、陳竺を国務院の衛生部長(現在の国家衛生健康委員会主任、国務大臣に相当)に抜擢した。陳竺は中国共産党党員ではなく、無党派の閣僚就任は新中国建国以来3人目であった。
陳竺の主導により、2007年に国家食品薬品安全第11次5か年計画が発表され、2009年には食品安全法が施行されて、この問題も漸く落ち着きをみせた。
中国紅十字会会長就任
陳竺は2013年に衛生部長を退任したのち、中国共産党以外で認められている党派の一つである農工民主党主席として、中国の国会に当たる全国人民代表大会の常務委員会で14名いる副委員長を務めた。
また、2015年からは中国の赤十字組織である「中国紅十字会」の会長でもある。
日本との関係も深く、上記の写真は東京大学と中国科学院の協力プロジェクト発足式のものである。

参考資料
・新華网HP 陈竺简历
・人民日報HP 陈竺 陈赛娟:师出同门的院士伉俪
・人民网HP 陈竺 当年“赤脚医生”写下人生传奇
・百度HP 陈竺
・百度HP 医学界的浪漫:五对医学伉俪的爱情故事


