はじめに
屠呦呦(1930年~)が、2015年のノーベル生理学・医学賞を受賞したとの朗報が、中国科学界にもたらされた。屠呦呦は、中国に生まれ、中国のみで教育を受け、中国で研究活動を行った研究者として、初めての受賞であった。
生い立ちと教育
屠呦呦(Tu Youyou)は、1930年に浙江省の寧波(にんぽー)に生まれた。五人の子供のうちでただ一人の娘であったため、両親は美しい女性に成長することを願い、中国古典の詩経の語句「呦呦鹿鳴 食野之苹(ゆうゆうとして鹿が鳴き、野のよもぎを食べる)」から「呦呦」と名付けたという。ちなみに、寧波は杭州湾に面した海上交通の要衝であり、アヘン戦争での敗戦を受けて、1842年に諸外国に開放された地である。
屠呦呦は地元寧波で基礎教育を受けた後、20歳となった1951年に北京大学に入学した。北京大学では医学部薬学科の学生として漢方薬の生薬を専攻し、4年後の1955年に優秀な成績で卒業した。大学を卒業した屠呦呦は、衛生部(日本の旧厚生省に相当し、現在の国家衛生健康委員会)の直属研究機関である中医研究院(現在の中国中医科学院)に配属を命ぜられた。
マラリア特効薬開発に取り組む
漢方薬の研究者であった屠呦呦に大きな転機が訪れたのは、1969年に発足したマラリア特効薬の開発プロジェクトへの参加である。
マラリア(中国語で「疟疾」)は、熱帯から亜熱帯に広く分布する原虫感染症であり、高熱や頭痛、吐き気などの症状を呈し、悪性の場合は意識障害や腎不全などを起こし死亡することもある。以前は中国でも海南島、雲南省、広西省、広東省等の南部の地域で、マラリアは主な死因の一つだった。
1960年代に入って徐々に本格化したベトナム戦争において、中国はソ連と共に北ベトナムの同盟国として軍事的な支援を行った。この北ベトナムでもマラリアは兵士や一般庶民を苦しめる病気であり、従来から特効薬として用いられていたクロロキンでは原虫に耐性が出始めていた。そこで中国は、自国民の治療だけでなく同盟国の北ベトナムを支援すべく、関係機関にマラリアに対する新薬開発を命じたのである。
マラリア新薬の開発を命ぜられた機関の一つが国務院の中医研究院であり、そこに発足したプロジェクトチームのリーダーに指名されたのが屠呦呦であった。
1969年にチームが発足すると、屠呦呦は約2,000の伝統的な漢方の調剤法を調べた。その過程で1971年にヨモギの一種「黄花蒿(日本名ではクソニンジン)」から抽出された物質が、動物体内でのマラリア原虫の活動を劇的に抑制することを突き止めた。
翌1972年に屠たちはその純物質を取り出し「青蒿素」と名付けた。この青蒿素はマラリアの新しい特効薬として活躍し、後に欧米でも認められて「アルテミシニン」と呼ばれた。
徐々に国際的な評価が高まる
屠呦呦による青蒿素の発見は1972年で文化大革命の最中であり、中国国内ではそれなりの評価を得ていたものの、国際的には知られていなかった。
改革開放後に徐々に屠呦呦の国際的な評価が高まり、80歳を超えた2011年に屠呦呦は、ラスカー・ドゥベーキー臨床医学研究賞を受賞した。この賞は米国のラスカー財団によって授与される国際的な医学賞の一つで、患者に対する臨床治療法の改善に貢献した研究者を対象としている。日本人では、心血管疾患の予防・治療に革命的な効果をもたらした脂質降下薬スタチンの発見により、文化功労者である遠藤章・東京農工大学名誉教授が2008年に同賞を受賞している。
ノーベル生理学・医学賞受賞
屠呦呦は2015年に、日本の大村智博士らと共にノーベル生理学・医学賞を受賞した。受賞理由は、マラリアに対する新たな治療法に関する発見であった。
膨大な人口を擁し、歴史・文明の長さでも世界有数である中国であるが、近代科学技術における最高栄誉であるノーベル賞受賞者はそれほど多くない。
中国人で初めてのノーベル賞受賞は、1957年の楊振寧と李政道両博士による物理学賞の受賞であり、受賞理由は素粒子物理学におけるパリティについての洞察的な研究であった。ただ、楊振寧と李政道両博士は中国本土で生まれ大学までの教育も本土で受けたものの、その後の大学院教育や研究は米国のシカゴ大学でフェルミ博士の下でなされ、新中国建国以前に渡米していたため両博士のノーベル賞受賞時の国籍は中華民国であった。
楊振寧と李政道両博士の受賞以降も、中国系の研究者がノーベル賞を受賞しているが、香港、台湾などの出身であったり、米国移民の子孫であったりして、中華人民共和国国籍での受賞はなかった。2015年の屠呦呦の受賞は、このような状況を打破する快挙であった。
三無科学者~冷たい中国国内での反応
ところが、ノーベル賞受賞後の中国科学界の反応は、必ずしも屠呦呦に対し好意的なものではなかった。それは、彼女が「三無科学者」と呼ばれたことでも分かる。まず彼女は博士号取得者ではなかった。また海外での教育・研究経験がない。そして中国科学院の院士ではない。これらは、現在の中国科学界における正統派の学者・研究者とはかけ離れた経歴であり、そういった人たちから嫉妬を含む反感が彼女に浴びせられたのである。
しかし、屠呦呦が教育を受け精力的に研究を進めていた時代を考えると「三無科学者」という蔑称はいわれなき中傷に近い。まず博士号であるが、すでに述べたように屠呦呦は中国の名門中の名門である北京大学出身である。しかし、在籍していた新中国建国時には、中国国内の大学における博士号の授与制度が確立していなかった。国内で博士号授与制度が確立したのは、文化大革命後の1981年の「学位条例」施行以降である。それ以前にも中国人研究者で博士号を有していた人もいたが、国内のキリスト教系や海外の組織の支援を受けている大学や、留学の後に海外の大学での取得が中心であった。
海外での経験がないという批判も、屠呦呦が活躍していた時代を考えるといわれなき中傷と考えられる。当時中国は東側陣営に属しており、西側への留学や研究滞在はほとんど不可能であった。また漢方医学という専門から見ても、あえて海外での経験を求める必要性がなかったであろう。さらに、直接的な軍事研究ではないものの、ベトナム戦争支援に関係している研究を実施していることも、海外での研究などに二の足を踏んだ要因と考えられる。
三つ目の院士ではないというのも、屠呦呦の業績云々ではなく中国科学界の度量の狭さを表すものである。女性であり、研究分野が比較的マイナーな漢方医学であり、所属する研究組織も有名大学や中国科学院傘下の主要研究所ではないことに起因していると想定される。
ただ、時間が経つうちにこのような反感が徐々に収まってきており、2017年1月に屠呦呦は習近平国家主席より国家最高科学技術賞を受賞している。
現在も屠呦呦は、中国中医薬研究院中薬研究所の終身研究員として、後進の指導に当たっている。
参考資料
・屠呦呦伝編集委員会/町田晶監訳/西岡一人訳 『屠呦呦~中国初の女性ノーベル賞受賞科学者』2019年、日本僑報社
・中国科学技術部HP https://www.most.gov.cn/ztzl/kjrw/201701/t20170110_130361.html