はじめに

 鐘南山(钟南山、Nanshan Zhong、1936年~)は、SARSや新型コロナ対応で、中国国内の陣頭指揮を執った呼吸器病学者である。鐘南山は、SARS終息に尽力したことにより「SARSとの戦いの英雄」と呼ばれている。

鐘南山の写真
鐘南山の写真 百度HPより引用

生い立ちと教育

 鐘南山(钟南山、Nanshan Zhong)は1936年に、江蘇省南京市に生まれた。

 鐘南山の父・鐘世藩(钟世藩)は、米国ロックフェラー財団により設立された北京協和医学院を卒業した小児科医であり、米国ニューヨーク州立大学に留学し医学博士号を取得して帰国し、鐘南山が生まれた時には南京中央医院の小児科部長であった。鐘南山の母・廖月琴は、北京協和医学院の高等看護学科を卒業し、南京中央医院で看護師として勤務していた時期に鐘世藩と出会い、結婚した。

鐘南山一家の写真
鐘南山の家族写真 前列は父・鐘世藩と母・廖月琴、後列は鐘南山と妹・鍾黔軍  百度HPより引用

 鐘南山は、二人が勤めていた南京中央医院で生まれた。南京中央医院は、南京市の郊外にある紫金山の南にあったので、父・鐘世藩はそれにちなんで我が子を南山と名付けた。

 鐘南山が1歳となった1937年に日中戦争が勃発し、南京にあった自宅が日本軍の爆撃を受けた。鐘南山は、がれきの下に埋もれてしまったが、母と祖母が必死の思いで救出し、一命をとりとめた。日本軍の攻撃により南京が陥落すると、一家は両親が勤めていた南京中央医院のスタッフとともに中国南部の貴州省貴陽市に疎開したが、1943年に貴陽市の家も日本軍の爆撃を受けて破壊された。この時には、家族と近くの公園に逃れて無事であった。

 日本が第二次世界大戦に敗北し、日本軍が大陸から撤退すると、鐘南山の家族は貴陽市から広東省の広州市に移動した。父・鐘世藩は、前年にロックフェラー財団の奨学金でシンシナティ大学小児病研究所へ派遣されていたが、戦後帰国し、広州中央医院の院長となったことによる。

 鐘南山は、小さいころから両親の勤める医院に通ったり、また父が患者である子供を自宅に連れてきて治療したりしたことから、医師となることが使命であると考えるようになり、1955年に北京医学院(現在の北京大学医学部)に進学した。

 鐘南山は、優れた運動能力を有していて、大学3年生の時に北京市の大学運動会で400メートル走に出場して、見事一位を獲得している。

四清運動と文革での下放

 鐘南山は、1960年に北京医学院を卒業し、引き続き同医学院で勤務した。

 1963年に、毛沢東の主導で四清運動が開始された。
 四清運動は、当初人民公社の改革を目指すものであったが、毛沢東の主導により劉少奇ら「走資派」の追い落としや迫害への大衆運動にエスカレートした。そして、再教育を名目に知識人や学生が農村に送り込まれた。この運動の次のステップとして、毛沢東は文化大革命を発動した。

 鐘南山は、四清運動に参加し、1965年には1年の間、山東省乳山に派遣され農民とともに農作業を行った。
 1966年に文化大革命が始まり、鐘南山の両親に大きな悲劇が襲った。父・鐘世藩は貶められて懲罰として幼児の哺乳瓶を洗うよう命じられた。母・廖月琴は、紅衛兵から壁新聞で誹謗中傷を受けたり、批判集会に引きずりだされたたりしたため、川に身を投げて自殺した。
 鐘南山は、1968年に北京でボイラー工として働くことを命じられた。また、1969年には農村医療チームに加わることを命じられ、河北省に赴いた。

広州市で医師に復帰

 鐘南山は、1971年に家族の働きかけで転勤命令を受け、広州に戻って広州第四人民医院(現在の広州医科大学付属第一医院)で医師として働くことになった。

 鐘南山はこれ以降、呼吸器内科医として、臨床や研究に当たることになる。当時中国では、慢性気管支炎への対策が重要となっており、時の総理である周恩来がその予防と治療のキャンペーンを行っていたため、広州第四人民医院でも慢性気管支炎対策チームを立ち上げた。鐘南山はそのチームに加わって、国や省からの資金を得て患者の治療を行うとともに、学会誌などの論文を発表した。 

英国に留学

 文化大革命が終了した直後の1979年に、鐘南山は英国エジンバラ大学附属病院呼吸器科に留学した。
 そこでの研究結果をオーストリア・ウィーンで開催された国際会議で報告すると、ロンドン聖バーソロミュー病院の胸部外科部長が関心を持ち自分の病院で研究するよう招へいした。その招へいに応えて、同病院でも研究を行った。

 鐘南山は1981年に英国から帰国し、1983年に広州医学院(現在の広州医科大学)呼吸内科副教授に、さらに1985年には同学院教授に就任した。

 鐘南山は1992年に、広州医学院の学長兼中国共産党委員会書記(党委書記)に就任した。党委書記は1994年までの2年間、学長は2002年までの10年間務めている。

 1995年から1年間、カナダのマギル大学に客員研究官として派遣された。

 1996年には、中国工程院院士に当選した。

SARSとの戦い

 2002年、中国社会を大きく揺るがす事件・SARSの蔓延が発生した。SARSは「重症急性呼吸器症候群(Severe Acute Respiratory Syndrome)」のことであり、2002年11月に広東省で非定型性肺炎の患者が報告されたのに端を発し、インド以東のアジア諸国とカナダを中心に、多くの地域や国々へ拡大した。

 中国では初期に305人の患者が発生し、うち5人が死亡した。翌2003年3月には、旅行者を介してベトナムや香港に飛び火した。世界保健機関(WHO)はこの時点で、原因不明の重症呼吸器疾患をSARSと名付け、全世界に向けて流行に関する注意喚起を行い、異例の旅行中止勧告を発表した。

 このSARSの蔓延に際して、中国国内の陣頭指揮を執ったのが鐘南山である。
 2002年12月、鐘南山のもとに高熱を発し呼吸困難となった肺炎患者が運び込まれた。すぐに大量の抗生物質が投与されたが、容態が回復せず、治療に当たった医療スタッフまで感染してしまった。
 鐘南山は、SARSの診断と治療のガイドラインを作成し、広東省の患者を自分の病院に集約させて治療に当たった。その結果、彼の病院では他の国と比較しても比較的高い救命率を達成することができた。

 世界的にSARSの原因究明が進められた結果、2003年6月には新型のコロナウィルスによる病気と特定された。2003年7月にWHOによって終息宣言が出されたが、WHO の報告によると香港を中心に8,096人が感染し37か国で774人(致死率は約9.6%)が死亡したとされている。

 鐘南山は、SARS蔓延終息に尽力したことにより「SARSとの戦いの英雄」と呼ばれた。

新型コロナとの戦い

 2019年12月、武漢市内で未知のコロナウィルス(後にCOVID-19と命名)による肺炎患者が出た。これが、武漢市内から中国全体さらには世界中に拡散し、世界的なパンデミックを引き起こした。

 新型コロナが武漢で流行となった時、鐘南山はすでに83歳と高齢であったが、自分のチームを率いてその診断と治療に当たった。彼は、流行開始直後の2020年1月に武漢に赴き患者の診断を行い、この新型コロナ肺炎はヒトからヒトに感染することを強調し、できる限り武漢に行かないように強調した。また、空気清浄を徹底することを強調したり、診断のガイドラインつくりにも協力した。

 同年9月、北京の人民大会堂で新型コロナウイルス感染症対策全国表彰大会が開催され、鐘南山は習近平国家主席より共和国勲章が授与された。

鐘南山共和国勲章の写真
新型コロナウイルス感染症対策全国表彰大会での鐘南山(右から2人目)と習近平(中央) 求是网HPより引用

参考資料

・北京大学新聞网HP 医者钟南山
https://news.pku.edu.cn/bdrw/f09c73a1063a43b0a02132aff3d51f6a.htm
・人物周刊HP 封面人物丨医者钟南山
https://nfpeople.infzm.com/article/8987
・捜狐HP 【方志四川•人物】钟南山传
https://www.sohu.com/a/372901523_120158407
・求是网HP “共和国勋章”获得者钟南山 “人民英雄”国家荣誉称号获得者张伯礼、张定宇、陈薇
http://www.qstheory.cn/dukan/qs/2020-09/16/c_1126494615.htm