Recognition & Advisory Functions of CAS
1. 中国科学院院士の沿革 History of Academisian
(1)院士とは
中国の研究者・技術者は、生涯の目標として「院士」と呼ばれることを目指して研究に励んでいる。院士は、科学技術において傑出した成果を挙げた研究者・技術者に付与される称号であり、中国科学院と同院から独立した中国工程院がこの称号を付与できる。これら院士は、科学技術に対して政府に助言することも期待されている。
中国科学院の本部には「学部事務局」が設置されており、院士の選定事務や選定された院士の科学技術に対する助言機能をサポートしている。
(2)中央研究院
新中国建国直前の1948年3月、中国科学院の前身の一つである中央研究院は、科学技術に功績のあった科学者を合計87名選び、「中央研究院院士」の称号を与え、同年9月、これらの院士を集めて第1回院士大会を開催した。
しかし、その後の国共内戦、中国共産党の勝利、国民党の台湾への移転などにより、中央研究院の研究者は大陸と台湾に分かれてしまった。大陸に残った中央研究院の研究者や施設などは、1949年に発足した中国科学院に接収されたため、中央研究院の院士制度は大陸では消滅した。
一方台湾では、1954年に中央研究院が再建され、台湾で新たに選出された中央研究院院士を含めて1957年に第2回院士大会が開催され、その後2年に1度、選挙により中央研究院の院士が選出され、現在に続いている。
(3)中国科学院の専門委員
1949年に中国科学院が発足すると、同院は中国全土の自然科学の専門家や研究機関についての調査に着手した。自然科学の専門家調査は2回にわたり行われ、数学、物理学、化学、生物学、天文学、地学、心理学の専門家が合計865名リストアップされた。うち171名は国外在住だった。
1950年8月、中国科学院はこのうち200名を「専門委員」として招請した。専門委員は院長が招請し、中国科学院の学術顧問の役割を担うこととした。当時の中国科学院は、その傘下に17研究所と設立準備中の3研究所があったことを踏まえ、専門委員はそれぞれの専門分野に対応する20分野のグループに配置された。
中国科学院の幹部は、同院の運営方針、傘下の研究組織の調整や設置など多くの重要な意思決定に先立ち、専門委員の意見を聴取した。
(4)自然科学用語の統一
中国科学院の発足時に、専門委員が手をつけた最初の仕事は自然科学用語の統一であった。
日中戦争前の比較的落ち着いた時代には中国においても科学技術の進展が見られたが、日中戦争やその後の国共内戦などにより、研究ポテンシャルは破壊され研究者も散逸していた。混乱した中国社会からの脱却を目指し、中国全土における学術用語を統一することは、科学研究、学術交流、高等教育、科学啓発活動などを進める上で極めて重要であると考えられた。
中国科学院は関連機関と合同で専門委員会を立ち上げ、専門委員として招請した科学者に、自然科学用語の審査決定作業を依頼した。1951年初頭までに、「動植物命名原則(試行)」、「化学物質命名原則」、「天文学用語」の3つを決定した。
(5)中国科学院・学部委員
1955年、専門委員では中国科学院の指導に十分ではないとの判断のもと、中国科学院は学術分野ごとに「学部(Academic Divisions)」を設置し、そこに関連の研究者を集めて委員会を立ち上げて傘下の研究所の指導を行う方針を決定し、学部委員199名を指名した。
同年6月北京で、中国科学院の学部設置式典が北京で挙行され、学部委員のほか、中国科学院傘下の各研究所、大学及び関係機関の責任者合計500名余りが式典に参加した。ソ連科学アカデミーとポーランド科学アカデミーの代表団や、チェコスロバキア、ハンガリーなどの科学者も招待を受けて出席した。
(6)各学部の初代の主任
各学部の設置当初、物理学数学化学部、生物学地学部、技術科学部、哲学社会科学部の4つの学部が置かれた。各学部の初代主任は次の通り。
○物理学数学化学部主任:呉有訓
○生物学地学部主任:竺可楨
○技術科学部主任:厳済慈
○哲学社会科学部主任:郭沫若
(7)文化大革命で活動停止
1957年に第2回学部委員大会、1960年に第3回学部委員大会が開催された。1966年に文化大革命が開始されたが、中国科学院は文革期間中大きな影響を受け、傘下の各研究機関の活動がほぼ停止し、学部の活動も停止した。
(8)学部活動の再開
文革終了後、中国科学院の活動再開とともに、学部活動の復活が始まった。
1981年5月北京で、復活した学部委員大会が第4回大会として開催され、鄧小平、趙紫陽ら共産党と国の指導者が開幕式に出席した。332名の学部委員は、全国24の省・直轄市・自治区と、44の高等教育機関及び114の研究機関から参加した。
(9)学部委員から院士へ
1984年1月、第5回学部委員大会が北京で開催された。前中国科学院院長の方毅は共産党中央と国務院を代表し、学部委員大会を国の科学技術分野における最高諮問機関とし、学部委員は国の科学技術分野における最高の栄誉称号とすべきであると述べた。
1994年1月、中国科学院は学部委員全員に通知を出し、中国科学院の学部委員を「中国科学院院士」に改称すると伝えた。併せて、中国科学院学部委員大会を「中国科学院院士大会」に改称した。
(10)外国籍院士の導入
同年6月に開催された第7回中国科学院院士大会(学部委員大会も含めて回数をカウントしている)では、初の中国科学院外国籍院士が選出された。選ばれたのは、米国理論物理学者の李政道及び楊振寧(二人とも中国出身のノーベル物理学賞受賞者)、米国植物学者のピーター・ハミルトン・レーブン、米国コンピュータ科学者で心理学者のハーバート・サイモン(ノーベル経済学賞受賞者)、英国有機化学者のデレック・バートン(ノーベル化学賞受賞者)、英国科学史学者のジョゼフ・ニーダムらである。
(11)中国工程院の独立
1991年に、中国科学院の学部の一つである技術科学部が、国際的な組織に対しメンバー申請を行ったが、中国科学院の一部であるとの理由で認められなかった。そこで、1994年2月に中国工程院が、中国科学院から独立して新設された。
2. 中国科学院院士が所属する学部の組織 Academic Division of CAS
中国科学院院士は、いくつかの学部(Academic Division)に分かれて所属し、専門委員会などを通じて政府への助言活動を行っている。
院士大会は、院士全ての参加を求めて2年に一度開催される会合である。1996年以降、中国工程院と合同で開催されており、直近では2021年5月28日から、北京において第20回中国科学院院士大会と第15回中国工程院院士大会が開催された。
学部主席団は、院士大会が開催されていない間の業務を処理する機関であり、中国科学院院長をヘッドとして、学部担当の複数の副院長、下部機関である6学部や4委員会の主任、院士の中から選挙で選ばれた院士から構成される。さらにこの学部主席団の半数程度を選んで執行委員会が構成されており、ヘッドはやはり中国科学院の院長が務めることになっている。
中国科学院には、専門分野ごとに6つの学部が設置されており、それぞれの院士は自らの専門分野に合わせた学部に所属する。6つの学部とは、数学物理学部、化学部、生命科学・医学学部、地学部、情報技術科学部、技術科学部である。外国籍の院士の場合には、これらの学部には属さない。
学部とは別に、分野横断的な件について、中国科学院などに提言していく内容を議論するための委員会が設置されている。具体的には、諮問評議委員会、科学倫理委員会、学術出版委員会、科学普及・教育委員会の4つである。各院士は、それぞれの関心にしたがって委員会の構成メンバーとなる。
中国科学院の本部には学部事務局が置かれており、学部主席団などの指示を受けて中国科学院院士の活動を補佐している。
3. 中国科学院院士の構成 Structure of Academician
2022年4月現在で、中国科学院院士数は795名である。各学部別に見ると、数理物理学学部159名、化学部136名、生命科学・医学学部155名、地学部141名、情報技術科学部106名、技術科学部158名となっており、それ以外に外国籍の院士が129名である。
地域別の院士数を見ると、北京市418名、上海市103名、江蘇省47名、湖北省25名、陝西省23名、広東省22名、安徽省21名、香港特別行政区20名、遼寧省19名、浙江省18名であり、これら10の省、直轄市及び特別行政区で716名に達し、全体の院士の87%を占めている。院士の性別を見ると、男性は94%、女性は6%となっている。さらに、院士の平均年齢は73歳である。
やはり地域別の外国籍の院士数を見ると、米国が圧倒的に多く、ついで英国とフランス、ドイツなどが続いている。日本人の現在の院士は、野依良治JST研究開発戦略センター長(ノーベル化学賞受賞者)、飯島澄男名城大学教授、福田敏男名城大学教授の3名である。また、井口洋夫元岡崎国立共同研究機構長も院士であったが、残念ながら2014年3月に死去された。
4. 中国科学院学部の活動実績 Results of Academician's Activities
中国科学院の学部は、中国の科学技術の発展を目指した活動を行ってきた。
(1)自然科学用語の統一
日中戦争前の比較的落ち着いた時代には中国においても科学技術の進展が見られたが、日中戦争やその後の国共内戦などにより、研究ポテンシャルは破壊され研究者も散逸していた。
1949年の中国科学院の発足時に、顧問となった専門委員が手をつけた最初の仕事は自然科学用語の統一であった。混乱した中国社会からの脱却を目指し、中国全土における学術用語を統一することは、科学研究、学術交流、高等教育、科学啓発活動などを進める上で極めて重要であると考えられた。
中国科学院は関連機関と合同で専門委員会を立ち上げ、専門委員として招請した科学者に、自然科学用語の審査決定作業を依頼した。1951年初頭までに、「動植物命名原則(試行)」、「化学物質命名原則」、「天文学用語」の3つを決定した。
(2)中国科学院科学基金の設置
1981年の第4回学部委員大会の期間中に、89名の学部委員が連名で中央政府に書簡を出し、国の予算により科学基金を設立して基礎研究を資金援助するよう提案した。科学研究の権威のある有識者が、一丸となって中国全般の科学技術動向に対して意見を述べたという意味で、画期的なことであった。
この提案を受け、1982年3月に中国科学院は基金制度を創設した。この中国科学院科学基金は、米国科学財団(NSF)を範とするもので、研究者の自由な発想に基づく科学研究のアイディアを公募し、それを科学的な価値の観点から審査を行って、優秀なアイディアに資金援助するものである。1982年からプロジェクト申請の受理を始め、1986年には計4,424の課題に資金援助し、支援総額は1億7,200万元に達した。資金援助を受けた研究者の所属機関は、大学を含めた高等教育機関が74.8%を占め、中国科学院が14.6%で残りは企業などであった。
中国科学院科学基金の成果を受けて、政府は資金援助を中心とした組織を中国科学院と独立して設置することを決定し、1986年2月に国家自然科学基金委員会(NSFC)が発足した。これに対応するものとして日本の科学研究費補助金がある。
(3)863計画
1983年に米国レーガン大統領は、ソ連の軍事的脅威に対応し21世紀のハイテク技術分野におけるトップの地位を確立するため、「スターウォーズ」計画を提案した。これに追随して、日本、西欧、ソ連等も相次いで21世紀のハイテク技術分野の開発計画を提起した。
中国においても、同年3月、王大珩ら中国科学院学部委員4名が、「海外のハイテク技術競争の波は無視することができず、中国も国情に合わせて適切な目標を選び、積極的にキャッチアップ研究を行い、できる限り何らかの面で他をリードする成果を出さなくてはならない。これを実現するため、ハイテク人材を大切にすべきである」旨の意見書を、時の指導者であった鄧小平に提出した。
この提言を受けた鄧小平は、「この件は速やかに決断すべきで、放置してはならない」との指示を出し、国務院の担当者に早急に対応するよう命じた。国務院の関連部門は、多くの専門家集めて検討を進め、プロジェクトにトップダウン的に資金を提供する制度である「ハイテク技術研究発展計画」を制定し、国家科学技術委員会(現在の国務院の科学技術部)が1987年2月から実施に移した。学部委員4名の提案と鄧小平の指示が1986年3月に行われたため、このプロジェクト資金は後に「863計画」と呼ばれた。
中国には、朱鎔基総理のイニシアティブで1997年3月に開始された基礎研究の強化を目的とした「973計画」と呼ばれるプロジェクト資金があり、863計画と973計画はトップダウンの資金として重要であった。しかし、近年の政府のファンディング機能の改革の一環で、この二つの計画は無くなっている。
5. 中国国内の関連機関 Related Organisations in China
中国国内には、中国工程院、中国社会科学院など、中国科学院に関連する機関が幾つか存在する。
(1)中国工程院
中国国内での中国科学院の関連組織として、まず挙げなければならないのが中国工程院である。
1991年、中国科学院の学部の一つである技術科学部が、国際的な組織である国際工学アカデミー連合(CAETS)のメンバーとなるべく申請を行ったが、技術科学部が中国科学院の一部であるとの理由で申請が認められなかった。 このため翌1992年に、技術科学部に属する王大珩ら6名の学部委員が早期に中国工程・技術科学院を設置すべきという意見書をまとめ、政府に提出した。
この意見書を受けて政府部内で検討が進められ、1994年2月に中国工程院が新設された。中国工程院は中国科学院と同様に院士制度を導入し、同年6月、第7回中国科学院院士大会開催と同時期に中国工程院院士大会を北京で開催した。以降中国科学院と中国工程院は、院士大会を隔年毎に合同で開催している。
2021年11月現在中国工程院は、院士大会、主席団、9つの学部、7つの専門委員会、及び事務局で構成されている。中国工程院は中国科学院と違い、傘下に研究所を有していない。学部は機械・運搬工学、情報・電子工学、化学工業・冶金・材料工学、エネルギー・鉱山学、土木・水利・建築工学、環境・繊維工学、農学、医薬・衛生工学、工程管理学の9つであり、専門委員会は院士選出政策委員会、科学倫理委員会、諮問委員会、科学技術協力委員会、学術・出版委員会、教育委員会、産業科学技術委員会の7つである。
2021年11月現在で、中国工程院院士数は971名である。また中国工程院も、中国科学院同様に外国籍院士を有しており、全体で111名であり、日本からは藤嶋昭東京理科大学前学長、大村智北里大学特別栄誉教授(ノーベル生理学・医学賞受賞者)、小泉英明日立製作所名誉フェロー、田村幸雄東京工芸大学名誉教授、天野浩名古屋大学教授(ノーベル化学賞受賞者)の5名が選出されている。
(2)中国社会科学院
中国社会科学院は、文化大革命終了直後の1977年5月、中国科学院の哲学社会科学部及びその傘下の研究所が分離独立して設置されたものである。
独立した当時は14の研究单位で約2,200名であったものが、現在は31研究所、45研究センターであり、約4,200名を擁している。
中国社会科学院は、高い研究成果を有する科学者を顕彰し、政府に対する助言を求める組織として、文学・哲学、社会・政治・法学、歴史学、経済学、国際問題研究、マルクス主義研究の6つの学部を有している。中国科学院と中国工程院は学部委員を院士と改称したが、中国社会科学院は学部委員の呼称を継続して使用しており、通常の学部委員と80歳以上の栄誉学部委員をおいている。中国社会科学院にも院士制度を導入すべきとの主張もあるが、現在は検討中となっている。
(3)中国農業科学院、中国医学科学院など
以上のほか、中国国内には、中国農業科学院、中国医学科学院、軍事科学院、中国環境科学院などの組織がある。これらは、農業、医学、国防、環境等の分野の研究所を傘下に有している組織であるが、中国科学院など著名な学者や功績のあった学者を顕彰したり、政府などに助言したりする機能はない。
6. 他国における類似機関 Similar Organisations in other Countries
(1)ロシア
中国科学院の発足時にお手本としたのが、基礎科学の担い手としてロシア帝国やソ連時代から多くの研究成果を挙げてきたロシア科学アカデミー(Russian Academy of Sciences、RAS)である。西欧の科学技術を積極的に導入していくため、1724 年にピョートルⅠ世により設立されたサンクトペテルブルク帝国科学芸術アカデミーが、このロシア科学アカデミーの前身である。また同年に、アカデミー附属の教育機関としてアカデミー大学が設立されるが、これが現在のサンクトペテルブルク国立大学の前身である。
ロシア科学アカデミーは中国科学院と同様に、研究機能と研究者の顕彰機能を有している。教育機能についても、傘下に大学は有していないが附属の研究所は博士号の授与権を有している。
顕彰機能としてロシア科学アカデミーは、アカデミー正会員(アカデミシャン)、準会員(コーレスポンディング)の制度を有している。対象は傘下の研究所所属の研究員のみならず、ロシアの全研究者であり、顕著な科学的功績に対して与えられる極めて高い地位の称号となっている。両会員とも終身会員であり、新たな正会員は現会員による投票で選ばれる。現在、アカデミー正会員約900名、準会員約1,150名、外国人会員約500名である。
(2)日本
日本では、日本学士院、日本学術会議、日本工学アカデミーの三つの機関が、科学アカデミー関連とされているが、このうちで中国科学院の学部に最も近い機関は日本学士院である。
日本学士院は、学術上功績顕著な科学者を優遇し学術の発達に寄与する事業を行うために、法律に基づいて設置された文部科学省の特別の機関であり、1879年に東京学士会院として発足し、帝国学士院を経て、戦後の1947年に日本学士院となった。1949年に日本学術会議の下部組織に位置づけられたが、その後1956年に独立して、現在に至っている。
会員は終身であり、定員は150名である。死亡により欠員が生じた分科ごとに各部分科会員の投票により毎年12月に新会員が選定される。
日本学士院は2部構成となっており、第1部は文学・史学・哲学、法律学・政治学、経済学・商学の人文科学部門、第2部は、理学、工学、農学、医学・薬学・歯学の自然科学部門となっている。
日本学士院の会員は日本人の科学者・研究者であるが、これとは別に我が国における学術の発達に特別に功労のあった外国人研究者を客員として選定しており、台湾出身のノーベル化学賞受賞者である李遠哲、中国大陸出身で米国籍のノーベル物理学賞受賞者である楊振寧が名を連ねている。
日本学士院が中国科学院の学部と違う点は、恩賜賞や日本学士院賞、エジンバラ公賞、日本学士院学術奨励賞といった科学賞の授賞も行っている点である。ちなみに、故エリザベス英国女王の夫君であった故エジンバラ公は、日本学士院の名誉会員であった。
参考資料
・中国科学院HP https://www.cas.cn/