中国科学院の設置(1949年)

 中国科学院の設置は、中華人民共和国建国時の最も重要な科学技術政策であった。国民政府の時代に設立された中央研究院や北平研究院は、重要な科学技術機関であったが、日中戦争や国共内戦で大きな影響を受けていた。共産党により設置された新たな政府は、この両機関を接収し、新時代の枢要な科学技術機関の設置を目指した。

中国の科学技術の総本山である中国科学院
現在の中国科学院

中国科学院の設立経緯

 1949年3月、中国共産党が北京に進駐した際、新中国建国後における科学技術・学術研究の重要性に鑑み、速やかに最高学術機関を設立することとした。新たに設立する機関は、全国の自然科学および社会科学分野の研究を行い、科学・教育・生産の緊密な連携を目指すものと位置付けられた。
 建国直後の10月19日に中国科学院が設置され、郭沫若が中国科学院の院長に、陳伯達、李四光、陶孟和、竺可楨じくかていの4名が副院長に就任した。

中央研究院と北平研究院の接収

 中国科学院が発足後に直ちに着手したのが、これまでの中国の科学技術・学術研究の遺産ともいえる中央研究院と北平研究院の施設や人員の接収である。設立まもない中国科学院は、接収した機関と人員を基に新たな研究所の設立・編成を進め、新生中国のための科学技術・学術研究の基盤を確立していった。

 一方、蒋介石が台湾に逃れた際、蒋介石と同行した中央研究院や北平研究院の研究者もいた。彼らの中には、本土の研究所から資料や装置が持ち込んだ例もあった。これらの人員や資材を元に、1954年に台湾の台北市に中央研究院が再建され、現在も台湾の科学アカデミーとして存続している。

数々の施策で、新中国の科学技術を牽引

 中国科学院は、全国の自然科学系人材についての調査を行い、数学、物理学、化学、生物学、天文学、地学、心理学の専門家合計865名をリストアップした。そのうち171名が海外に在住していた。中国科学院は、この中から200名を学術顧問として招請した。これは、海外にいる有力な科学者が中国に帰国するきっかけにもなった。
 中国科学院は、学術用語の翻訳および統一が科学研究や学術交流、高等教育用の教材作成、科学啓発活動を進めるうえで喫緊の課題として、200名余りの科学者を作業委員として招いた。1951年初頭までに、動植物、化学物質、天文学の3分野で統一用語が策定された。

 中国科学院はその後、文化大革命時には困難に直面したが、中国科学院が率先して行った人材政策、ファンディングなどが国全体の先駆けや規範になるなど、中国の科学技術に大きな影響を与え続けている。中国科学院は、現在104の研究所を傘下にもち、約7万人の職員を擁する世界最大の国立研究機関となっている。その予算総額も2016年時点で約518億元(約8,400億円)と、国立研究機関としては世界最大である。また、論文数やハイレベル論文数の量・質でも、世界を代表する研究機関である。

 なお、中国科学院は研究実施機関であると共に、大学を有する教育機関、さらには優れた研究者の顕彰機関でもある。

(参考資料)
・中国科学院HP http://www.cas.cn/
・中国科学院 https://china-science.com/cas/