はじめに
有人宇宙飛行は、宇宙開発の華である。ここでは、ガガーリン以来の世界の有人宇宙技術の進展と中国の有人宇宙技術を概観し、各国の技術力比較を見たい。
1.有人宇宙飛行の歴史
(1)ガガーリンによる世界初の宇宙飛行
冷戦下における米国とソ連の宇宙開発競争は、国家の威信、それぞれの属している陣営の優劣、国防・安全保障技術の優劣などに直結しており、極めて熾烈であった。1957年10月、ソ連は世界初の人工衛星となるスプートニク1号を打ち上げたが、これをきっかけに米国でスプートニク・ショックが起き、米国もNASAを設立して本格的な宇宙開発を始める。
ソ連はその直後の1957年11月に、犬ライカを搭載した人工衛星スプートニク2号の打ち上げにも成功する。さらにソ連は1960年9月、スプートニク5号で2匹の犬やラットを地球周回軌道に載せ、これらの動物を無事地球に帰還させることにも成功した。一方米国は、1961年1月マーキュリー計画により人工衛星MR2号にチンパンジーを搭載して打ち上げ、16分間の弾道飛行の後、大西洋上で無事回収した。
ところが1961 年4月、ソ連のガガーリンがボストーク1号により世界初の有人宇宙飛行を達成したことにより、米国はソ連に再度敗北することになった。
(2)アポロ計画
ガガーリンの宇宙飛行の一か月後には、米国のシェパード飛行士がマーキュリー計画で宇宙飛行に成功したが、スプートニクに続き有人飛行でも敗北したことは米国政府に深刻な影響を与えた。これを払拭すべく1961年5月、ケネディ大統領は上下両院合同議会での演説で、「私は、今後10年以内に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標の達成に米国民が取り組むべきと確信する」と述べ、アポロ計画の実施を宣言した。それまでのマーキュリーやジェミニといった有人飛行計画やその他の月探査計画は、月に人類を送り込むアポロ計画のための技術開発や飛行士訓練、現地調査の一環となった。
米国のアポロ計画は、発射台での火災に巻き込まれ宇宙飛行士3名が犠牲になった1967年1月のアポロ1号の事故にも屈せず着実に進められ、当時としては最強となるサターンV型ロケットが開発され、これを用いて1967年11月に無人のアポロ4号の打ち上げが成功した。その後アポロ5号から7号までで、様々なテストが実施され、1968年12月には3名の宇宙飛行士を乗せたアポロ8号が月の周回軌道に入り、無事地球に帰還した。さらに1969年7月、アポロ11号の2名の宇宙飛行士が、着陸船で月面に到着し、月面を歩いた初めての人類となった。
(3)デタント
1970年代に入り、米ソ冷戦の緊張緩和(デタント)が進み、また米ソ以外の国が宇宙開発に着手するとともに、2つの超大国が競争を続けることへの注目は薄らいでいった。米国の宇宙科学者たちの関心は、様々なデータを集めるスカイラブや宇宙との往復・再利用が可能なスペースシャトルに移っていった。
一方ソ連は、米国のアポロ計画に対抗してソユーズ計画を進め月着陸を目指していたが、アポロ計画の成功を受けて月到達を諦め、サリュート、ミールなどの地球近傍のステーション建設を目標にしていった。
(4)サリュート
サリュートは、人類初の長期宇宙滞在型ステーションとしてソ連により開発され、合計7機が打ち上げられている。ちなみに、サリュートとはロシア語で「礼砲」、「花火」を意味する。
1971年に打ち上げられたサリュート1号から5号までがほぼ同一の機体であり、6、7号はこれを改良した機体となっているが、大きさはほとんど変わらない。サリュート1号の外形は、全長約13メートル、直径が約4メートル、重量が約18トンで、3名が搭乗できた。搭乗員の打ち上げ・帰還にはソユーズが使用され、荷物の運搬はプログレスが使われた。
サリュート2、3、5号の3機は軍事目的であり、アルマースという別名を有し、地上偵察用の大型光学望遠鏡が搭載されており、軍人による情報収集活動がなされたほか、自衛用に23ミリ機関砲まで搭載されていた。
サリュートによるフライトは、サリュート7号が廃棄される1986年まで続けられ、その後のソ連の宇宙活動は後継のミールに引き継がれた。
(5)スカイラブ
米国はアポロ計画で人類の月到達ではソ連に勝利したが、ソ連がサリュートにより長期宇宙滞在を目指したことに対抗してスカイラブ(Skylab)計画を実施した。ラブは「laboratory」の略で、スカイラブは宇宙実験室を意味する。
1973年5月に本体が打ち上げられ、その11日後にアポロ宇宙船で3名の宇宙飛行士が本体に向かい、無事ドッキングして28日間宇宙に滞在して帰還した。その後、同様の実験を同年の7月と11月に実施し、人類の宇宙滞在日数を84日間まで伸ばしている。本体の機体はサターンロケットの第3段を改造して製造されたもので、全長約25メートル、直径約6.6メートル、総重量は68トンであった。
(6)スペースシャトルとスペースラブ
スペースシャトルは、再使用をコンセプトとして米国が開発した有人宇宙船であり、打ち上げ装置でもある。主な使用目的は、数々の人工衛星や宇宙探査機の打ち上げ、宇宙空間における科学実験、国際宇宙ステーションの建設などであり、初飛行の1981年から最終飛行の2011年まで、合計135回打ち上げられた。
スペースラブ(Spacelab)は、スペースシャトルに積み込まれる再利用可能な宇宙実験室である。与圧モジュール、非与圧のキャリア、その他関連する機器などの複数の構成要素からなり、宇宙の軌道上の微小重力状態で実験を行なうことができる。前述のスカイラブは1973年に実施されたのみで、その後の米国の宇宙実験はこのスペースラブにより実施された。
1983年11月、スペースシャトル運用の9回目であるSTS-9(コロンビア号)のミッションでスペースラブが搭載されて以降、1998年のSTS-90(コロンビア号)のミッションまで合計22回のシャトル・ミッションで使われた。
スペースラブのモジュールは、巨大な円筒形をした実験室で、スペースシャトルの貨物室に積み込まれる。実験室の外径は約4メートルで、与圧部とパレットの2区画があり、各区画の長さは約 2.7m である。与圧部は空気があり、シャトルの乗務員室とトンネルで接続されている。もう一つの区画であるパレットは宇宙空間への曝露が必要な機器、望遠鏡などの広い視野を必要とする機器などを取り付けるためのU字型のプラットホームである。
しかし、国際宇宙ステーションで科学的な研究を行なうことになったため、スペースラブは引退することになった。
(7)ミール
ミールは、ソ連によって1986年2月に打ち上げられた宇宙滞在型ステーションで、サリュートの後継機である。ミールという名前は、ロシア語で「平和」、「世界」を意味する。ミールはサリュートと異なり、複数のドッキングポートを備え、区画の増設が容易になっている仕様であった。最初に打ち上げられたのは、宇宙飛行士が寝食を行う居住空間を提供する部分であり、「コアモジュール」と呼ばれている。1996年までの10年間に5つの大型モジュールを打ち上げ、規模を拡大した。増設に増設を重ねたため非常に複雑な形状になっており、重量は約124トン、太陽電池パネルだけでも15枚に上った。
ミールは日本とも関係があり、1990年12月TBSの秋山豊寛氏が宇宙特派員として日本人初の宇宙飛行を達成し、ミールに搭乗して9日間にわたる宇宙リポートを行っている。
後述する国際宇宙ステーションにロシアが参加することが1993年に決定したことや、ミール本体の老朽化などにより、これを廃棄することとなり、2001年3月に大気圏に突入した。打ち上げられてから15年間、旧東側諸国を中心に米国やヨーロッパからも100人以上の宇宙飛行士が訪れ、米国のスペースシャトルも8回のドッキングを行った。
(8)国際宇宙ステーション
国際宇宙ステーション(International Space Station:ISS)は、米国、ロシア、日本、カナダおよび欧州宇宙機関 (ESA) が協力して運用している宇宙ステーションで、地球および宇宙の観測、宇宙環境を利用した様々な研究や実験を行うための巨大な有人施設である。地上から約400キロメートル上空を秒速約7.7キロメートルで飛行し、地球を約90分で1周、1日で約16周する。
この計画が最初に持ち上がったのは1980年代初期で、レーガン米国大統領による「フリーダム計画」である。この計画は、西側の結束力をアピールしてソ連に対抗する政治的な意図が非常に強いものであった。しかし、米国や欧州の財政難やスペースシャトル「チャレンジャー」の爆発事故があり、一方で1991年末にソ連が崩壊してロシアとなり、その混乱と財政難でミールは老朽化したまま放置に近い状態となっていた。
そこで米国は、ロシアに対しフリーダムとミールを統合するISS計画を持ちかけ、ロシアもこれに応じ、1998年から計画が開始された。1999年から軌道上でのISSの組立が開始され、2011年7月に完成した。現在の関係国の了解では、2024年まで運用を継続する方針である。
ISSは、重量約420トン、トラス(横方向)の長さ約108メートル、進行方向の長さ74メートルと巨大であり、最大滞在人数は6名である。
2.中国の有人宇宙飛行~準備段階
(1)有人飛行計画のスタート
1960年前後の有人宇宙飛行における米ソ先陣争いは、極めて急激で熾烈なものであったが、30年ほど遅れてスタートした中国の有人宇宙飛行は、しっかりとした計画に基づき地道に時間をかけて達成されている。
中国における有人宇宙飛行計画は、初めての人工衛星の打ち上げ後の比較的早い時期である1971年に計画が策定され、人民解放軍により宇宙飛行士の選考も行われていた。
しかしこの時期は、1966年から始まった文化大革命の真っ只中であり、文革の前に決められていた両弾一星計画は共産党幹部の強い意向により影響を免れたものの、新たな計画の実施は困難であり、有人宇宙飛行計画は結局中止に追い込まれた。
その後再び有人宇宙飛行に向けて動き出したのは文革終了後であり、1986年に策定されたハイテク科学技術開発の国家計画である863計画の中で有人宇宙飛行が取り上げられ、以降人民解放軍が中心となり関係部局の協力を受けて検討が行われてきた。
(2)有人宇宙船「神舟」の開発
1992年4月に中国独自の有人宇宙計画がスタートしたが、最初の重要な開発項目は有人宇宙船の選択であった。1981年に米国のNASAが有翼式の再使用型宇宙往還機であるスペースシャトルの初飛行に成功していたこともあり、中国の技術者にとっても再使用型の宇宙船は魅力的な開発目標であった。しかし、宇宙往還機は非常に複雑な技術であったこともあり、結果として堅実なソ連型のソユーズ方式を宇宙船として選んだ。中国式の有人宇宙船は「神舟」と命名された。神舟の命名は、当時の中国共産党総書記であった江沢民によるといわれている。
中国の有人飛行達成にとって幸運だったのは、ソ連が1991年に崩壊したことである。ロシアはソ連崩壊後に経済的混乱を経験することになり、中国はこの時期にロシアと交渉し、ソユーズ宇宙船の技術提供を受けることが出来た。
ただし、開発された神舟はソユーズと全く同一のものではなく、例えば神舟は全体に大きく宇宙飛行士の居住空間が広くなっている点や宇宙飛行士の代わりに宇宙実験装置が搭載できる点など、様々な工夫が凝らされた。
(3)無人飛行での周到な準備
1995年には人民解放軍の中で宇宙飛行士の選抜プロセスが開始され、選ばれた宇宙飛行士候補生14名からなる「人民解放軍航天員大隊」が1998年に発足している。
1999年11月に神舟1号は、酒泉衛星発射センターから長征2Fロケットにより打ち上げられた。ミッションは、ソユーズの技術を導入して一部改良した宇宙船神舟が十分な性能を発揮できるかどうか、また、地上側の追跡管制のシステムが神舟の飛行をサポートできるかどうかを確認することであった。神舟1号は、打ち上げ後所定の軌道に投入され、地球を14周、時間で21時間11分飛行して、無事内モンゴルに帰還した。
神舟1号の成功から1年2ヶ月後の2001年1月、神舟2号が打ち上げられた。神舟2号では、神舟の生命維持装置をテストするため、再突入カプセルの中にサルとイヌとウサギ各1匹が入れられた。また、64種類の観測機器、実験装置も持ち込まれ、これらの中には無重力結晶学の実験装置、6匹のマウス、宇宙線検出器、ガンマ線検出器等があった。神舟2号は、6日間と18時間、地球を108周して帰還した。
つづいて2002年3月、神舟3号が打ち上げられた。神舟3号では、宇宙で人が生存するのに必要な生命維持装置の試験を行うことを主目的とし、動悸、脈拍、呼吸、食事、代謝、排泄といった人間の生理現象を模した機能を備えたダミーの人形を搭載した。また打ち上げ直後の事故に備え、神舟3号は打ち上げ脱出システムを備えた長征2号によって打ち上げられた。ミッションでは、雲の測定、宇宙線の測定、紫外線の観測、大気の構成の分析、大気の密度の観測、タンパク質の結晶化などの実験が行われるとともに、搭載されたビデオカメラにより宇宙船の窓を通して地球が撮影された。
2002年12月、有人宇宙飛行へ向けての最終試験である神舟4号が打ち上げられた。神舟4号は、寝袋、食品など有人飛行に必要な装備がすべて積みこまれ、有人飛行の本番となる神舟5号で使われるものとほとんど変わらなかった。生命維持システムのテストのため、2体の宇宙飛行士のダミー人形も乗せられた。有人飛行に必要なシステムがすべて備えられており、このシステムに馴れるため宇宙飛行士候補者は打ち上げの1週間前に神舟4号に乗り込み、船内で訓練を行なっている。また、植物の生育実験を始めとして、物理学、生物学、医学、地球観測、材料科学、天文学などの実験も行なわれた。
3.中国の有人宇宙飛行~神舟5号の打ち上げ
2003年の神舟5号打ち上げ成功は、中国宇宙開発のハイライトであり、ここでは当日のエピソードを含め詳細に述べたい。
(1)打ち上げの時系列
2003年10月15日早朝、中国西北部の甘粛省酒泉市近郊に位置する酒泉衛星発射センターの問天閣は、人々の熱気と緊張に包まれていた。問天閣は、ロケット打ち上げ施設である酒泉衛星発射センターに付置されている施設で、宇宙飛行士の飛行・任務の訓練施設、生活施設、記者会見場などがある。戦国時代の楚の詩人である屈原の「問天(天に問う)」という語句に由来し、宇宙飛行士が宇宙の神秘を真摯に追求することを示唆している。
午前5時20分からは、中国共産党のトップである胡錦涛総書記の臨席の下、中国初めての有人宇宙飛行の壮行会が始まり、中国人の宇宙飛行士第一号となるべく楊利偉飛行士が、「精神を集中してすべての使命をしっかりと実行し、祖国中国とその人民の期待に応えたい」と、力強く意図表明を行った。
中国の国家威信を掛けたプロジェクトでもあり、中国の最高幹部である中国共産党中央政治局常務委員会の常務委員9名全員が、この打ち上げを酒泉と北京で見守っていた。前年の2002年11月に開催された第16回中国共産党全国代表大会において、江沢民から共産党トップの地位を継承した胡錦涛総書記であるが、日が浅く権力基盤がまだ十分に固まったとはいえない状況が続いていた。その意味でこの打ち上げは、胡錦涛体制を盤石なものにするためにどうしても成功しなくてはならないものであった。
酒泉では胡総書記に加え黄菊国務院副総理、呉官正共産党中央紀律検査委員会書記ら3名の常務委員が、北京航天飛行控制センターでは温家宝国務院総理ら6名の常務委員が、かたずを飲んで打ち上げを見守っていた。
5時30分、楊飛行士は銀白色の宇宙服に身を包み、李継耐有人飛行総管理者(中央軍事委員会委員、人民解放軍総装備部部長)に最終的な確認を求めた後、射場のロケットに向かった。6時15分、楊飛行士は射場のロケットに搭載された宇宙船「神舟5号」に着座した。船内では打ち上げ前の百項目以上にわたる準備・確認作業が、地上ではコントロールセンターの機能管理や楊飛行士の生理データのモニタリングが併せて行われ、すべてが正常に推移した。
9時きっかりに、神舟5号を載せた中国国産ロケット「長征2号」が轟音とともに打ち上げられ、9時10分には神舟5号がロケットから切り離されて、無事に地球を周回する所定の軌道に投入された。船内には、中国国旗、国連旗、2008年に開催予定の北京オリンピックの旗、中国初の有人宇宙飛行の記念切手などが搭載された。
神舟5号は、およそ21時間にわたり周回軌道で地球を14周回した。
翌10月16日の5時過ぎに、北京航天飛行控制センターから地球への帰還指令が発せられた。神舟5号は、その後徐々に飛行高度を下げ、6時23分に大気圏に突入した。神舟5号が着陸した場所は、内モンゴル自治区首都フフホトから約80キロメートル北方にある四子王旗であり、楊利偉飛行士が宇宙船から地上に出た直後に、温家宝総理から祝福の電話がなされた。
中国が欧州主要国や日本を追い抜き、ロシア、米国に次いで世界第3番目となる有人宇宙飛行技術を手に入れた瞬間であった。
(2)打ち上げ成功の意義
旧ソ連がボストークによりユーリイ・ガガーリンを打ち上げたのは1961年4月のことであることや、米国がアポロ11号によりアームストロング船長らを月へ送ったのは1969年7月であることを考えると、2003年の初有人飛行成功はかなり遅れて達成されたものである。しかし、中国の指導者や国民は熱狂的にこの成功を歓迎した。
中国の宇宙開発は他の先進諸国に比較すると遅れてスタートしており、さらに1966年から10年間にわたり文化大革命という政治的・社会的な大混乱の時代を経験していることを考えると、米国と旧ソ連は別格であり、当面の競争相手はフランス、ドイツ、英国等の欧州勢や近隣の日本であった。これら欧州勢や日本は、自らのロケットにより有人宇宙飛行を成功させていない。
宇宙開発は科学技術の色々な要素を組み合わせて実施されるものであり、いわば総合的な科学技術開発である。中国は科学技術の面で欧米諸国や日本などに後れていると常にいわれてきたが、中国国民はこの神舟5号の成功により科学技術でこれらの国々を凌駕したという思いを強くしたのである。
文革後の経済低迷期を経て、国家指導者の鄧小平が深圳や上海などを視察し南巡講話を発表したのが1992年1月であり、それ以降中国は急激な経済成長を開始した。2001年にはWTOに加盟し、神舟5号打ち上げが成功した2003年は2桁の経済成長が続いていた時期であり、2010年には日本をGDPで追い抜いて世界第2位の経済大国となっている。
その意味でもこの有人宇宙飛行成功は国民にとって、一流国への仲間入りの象徴でもあった。
(3)楊利偉飛行士
この宇宙飛行により、楊利偉は一躍時の人となったが、ここで、この楊利偉について少し触れたい。
楊利偉は、1965年6月に中国東北部に位置する遼寧省葫芦島市で、地方の特産品会社勤めの父と高校の教師である母の間に生まれた。遼寧省には瀋陽市や大連市などの大都市があるが、葫芦島市は遼寧省の西北に位置し北京市に近接していて、人口は約260万人である。18歳となった1983年に人民解放軍に入隊し、空軍第8飛行学院に学んだ。1987年には空軍航空大学を卒業し、戦闘機のパイロットとして空軍での勤務を開始している。1998年には、有人宇宙飛行計画での宇宙飛行士審査に合格し、人民解放軍航天員大隊所属となって宇宙飛行士としての訓練を積んだ。2003年10月、神舟5号により中国初の有人宇宙飛行を成功させ、宇宙飛行士となった。
楊は、葫芦島市の海岸近くに住んでいた幼い頃、空を飛ぶカモメを眺め、自分もカモメと同様に自由に空を飛ぶことを想像したという。小さい時の読書好きで内気な性格を心配した父は、楊を山登りや川泳ぎに積極的に連れ出したため、後にはスポーツや冒険が大好きな少年となった。少年時代になりたかった将来の職業は、意外にも鉄道の運転手であった。
4. 中国の有人宇宙飛行~独自の宇宙ステーション建設へ
(1)更なる有人技術の習得
神舟6号は2005年10月に打ち上げられ、2度目の有人宇宙飛行となった。神舟6号には、費俊龍と聶海勝の2人の宇宙飛行士が搭乗し、5日間宇宙に滞在した。彼らは改良により軽くなった新宇宙服を着て様々な科学実験を行い、初めてトイレ付の軌道モジュールに乗った。
神舟7号は、2008年9月に打ち上げられ、翟志剛、劉伯明、景海鵬の3名が搭乗した。ミッションは3日間続き、翟志剛、劉伯明の2名がソ連、米国に次いで世界で3番目となる宇宙船外活動(宇宙遊泳)に成功した。
神舟6号、7号の成功を経て、中国の有人飛行計画の重点は、独自の宇宙ステーション計画に移っていった。
(2)実験機「天宮1号」と神舟8号の打ち上げ
中国は、かつてのソ連サリュートや米国スカイラブなどと同様に、中国独自の宇宙ステーション「天宮」の保有を目指している。宇宙ステーションの建設・運用のためには、大型打ち上げロケットの開発、宇宙船同士のランデブー・ドッキング技術、長期運用可能な生命維持システム、そして物資の補給船といった技術が不可欠である。神舟計画は、まず世界で3番目となる有人宇宙飛行技術の習得を目指したが、次のステップとして「天宮」の建設と運用に向けた技術習得が実施されていった。
2011年9月、中国は初の宇宙ステーション実験機「天宮1号」の打ち上げに成功した。天宮1号は、全長10.4メートルの円筒形で、打ち上げ時の燃料を含む重量は8.5トンと比較的小型で、実験装置室と物資保管室を持っている。宇宙飛行士も乗り移り滞在できるが、滞在可能期間はそれほど長くない。旧ソ連のサリュートの全長約13メートル、直径約4メートル、重量約18トンの外形と比較して、かなり小ぶりである。
直後の2011年10月には、すでに軌道上にあった天宮1号を追尾しドッキングを行うため、神舟8号が無人宇宙船として打ち上げられた。神舟8号には、ダミーの人形やドイツとの共同実験装置も搭載されていた。天宮1号と神舟8号のドッキング試験は、テレビの他にインターネットやラジオなどで国内外に中継される中で見事に成功した。さらに、両宇宙船はいったん切り離されて移動した後、難易度の高い太陽光に照らされた場所で2回目のドッキングを行い、これも無事成功している。神舟8号は2度にわたるドッキング実験を終了し、およそ2週間後に無事に地球に帰還した。一方天宮1号は、さらなる実験に備え軌道上での待機体制に入った。
(3)神舟9、10号と初の女性宇宙飛行士
2012年6月、再び天宮1号とのドッキングを目指し、神舟9号が打ち上げられた。今度は有人で3名の宇宙飛行士、具体的には、景海鵬、劉旺、劉洋で、景海鵬は神舟7号での搭乗に続き2度目、劉洋は中国発の女性宇宙飛行士となった。打ち上げられた神舟9号は、軌道上に待機させてあった天宮1号との自動ドッキングに成功した。これにより中国は、米国、ソ連に次いで有人宇宙船とのドッキングを成功させた3番目の国となった。神舟9号に搭乗していた宇宙飛行士3名は天宮1号に乗り移り、約2週間滞在し、将来の長期滞在に備え身体への影響などの医学的調査を行った。さらに、両宇宙船を一度分離し、非常事態に備えた手動による再ドッキングにも成功した。その後、宇宙飛行士は全員再び神舟9号に乗り移り、無事に地球に帰還している。
ここで、中国初の女性宇宙飛行士である劉洋を簡単に紹介すると、劉は1978年10月に河南省鄭州市に生まれている。鄭州市は、中国大陸の中心部である中原の古都であり、3,500年前の伝説上の王国である殷の都が置かれたといわれている。現在でも約1千万人の人口を擁する大都会で、河南省の省都である。
地元の高校を卒業した劉洋は、1997年に人民解放軍の空軍に入隊し、空軍長春飛行学校に入学している。2001年に同校を卒業の後、パイロットとして活躍していたが、2010年に宇宙飛行士候補として選抜され、以降訓練を重ね、2012年6月の神舟9号のミッションにより中国発の女性宇宙飛士となったのである。父親の劉士林は鄭州市の食品機械企業の技師、母親の牛喜雲は軽自動車製造工場の従業員という家庭に育っている。中国初の宇宙飛行士で宇宙飛行士選抜の面接試験官でもあった楊利偉は、劉洋の面接の際に誠実でチャーミングであるとの印象を持ち、ともに宇宙で仕事をするための相性の良さを感じたと述べている。
2013年6月には、聶海勝、張暁光、王亜平の3名の宇宙飛行士を乗せた神舟10号が打ち上げられた。聶海勝は神舟6号での搭乗に続き2度目の宇宙飛行であり、王亜平は劉洋に続いて中国で2人目の女性宇宙飛行士であった。打ち上げ後に、軌道上で待機していた天宮1号との自動ドッキングを、さらに手動ドッキングをそれぞれおこなった後、15日間の飛行を終えて帰還している。宇宙滞在15日間は、神舟9号の13日間を超え、中国の有人宇宙船の最長記録を更新した。
(4)天宮1号の落下
天宮1号は、神舟10号によるドッキング実験や有人滞在試験などを終了しすべてのミッションを追えた後も軌道上に留まっていた。しかし、2016年3月に国外の科学者より天宮1号が制御不能に陥ったとの指摘が出され、同年9月には中国政府も、機械的または技術的な理由から制御不能となったと発表した。
地球近傍で制御不能になった天宮1号は、軌道上に留まることができず、大気上の空気抵抗により次第に高度が下っていった結果、2018年4月2日午前8時15分(日本時間同9時15分)ごろ、南太平洋中部上空で大気圏へ再突入した。機体の大部分は突入時に燃え尽きたと考えられる。
(5)天宮2号の打ち上げ
中国は、中国独自の宇宙ステーション建設を目指し、2016年9月に「天宮2号」を打ち上げた。天宮2号は、全長10.4メートル、最大直径3.35メートル、展開時の太陽電池パネルの長さは約18.4メートル、重量は8.6トンであり、長征2号Fロケットを用いて打ち上げられた。
天宮1号と比較をすると、サイズ的にはほとんど変わらないが、天宮1号は主としてドッキング技術習得のための標的だったのに対し、天宮2号は宇宙実験室と位置付けられていて、様々な実験が行えるように改良されており、さらに輸送・補修用に10メートル級のロボットアームが取り付けられた。宇宙飛行士の滞在期間も天宮1号に比較して長くなり、最長1か月程度の滞在が可能な設計となっている。
(6)神舟11号の打ち上げ
2016年10月、天宮2号とのドッキング、宇宙滞在、宇宙実験を目的とし、神舟11号が景海鵬、陳冬の2人の宇宙飛行士を乗せて打ち上げられた。景海鵬は、神舟7号、神舟9号に続いて3度目のミッションとなった。打ち上げ2日後には、神舟11号は天宮2号とドッキングに成功し、宇宙軌道上での実験を開始した。そしてドッキング開始から30日後に両宇宙船は切り離され、地球に帰還した。天宮1号内での有人滞在の日数は最大で15日間であったことと比較すると、2倍に延びたことになる。
中国では、この神舟11号が一番直近のものであり、これまで神舟5号から11号までで11名の宇宙飛行士が誕生しており、そのうち2名が女性である。
(7)無人補給船「天舟」の打ち上げ
無人補給船「天舟」は、天宮1号を改良する形で開発されたもので、全長10.6メートル、最大直径は3.35メートル、宇宙への物資運搬能力が6.5トン、推進燃料を最大で2トン搭載でき、3か月間の単独飛行能力を有している。天舟は使い捨て型であり、宇宙に物資を運搬した後は、地球の大気圏に再突入して燃え尽きる設計となっている。
2017年4月、天舟の初号機が打ち上げられた。この打ち上げは、海南島にある中国文昌航天発射場から、新しく開発されたロケット長征7型を用いて行われた。打ち上げ後、軌道に待機していた天宮2号と無人での自動ドッキングに成功し、所定の任務を終了した後、およそ5ヶ月後の2017年9月に大気圏に突入して燃え尽きた。
(8)「天宮」の建設完了
中国は、これまでの天宮1号、天宮2号の実績を踏まえ、本格的な宇宙ステーション「天宮」の建設を2018年頃から開始することとしている。順番で行けば、次に打ち上がるのは天宮3号となるはずであるが、これまでの天宮1号、天宮2号による実験段階は終了したとして、将来打ち上げる施設を改めて「天宮」と呼んでいる。この天宮のコアとなるモジュールが「天和」であり、それに2つの実験モジュールが追加されて完成する。現在の予定では2022年の完了を目指している。打ち上げ用のロケットは、長征5型が使用される予定である。建設段階や完成後の運用段階で用いられる有人飛行船は神舟であり、また物資運搬船にはすでに一度打ち上げられ実験に成功している天舟が用いられる。
コアモジュールの天和は、全長が約18メートル、直径が約4メートル、重量が約22トンといわれており、神舟や天舟とのドッキングをするためのポート、実験モジュールを接続するためのポートを備えている。一方、実験モジュールの2つはそれぞれ約20トンの重量を持ち、完成された天宮は合計で約60トンとなり、これは旧ソ連のミールに匹敵する規模となる。
5.国際的な比較(2019年時点で)
以下の記述は、2019年の時点でのものである。したがって、2023年現在では少し変化していると想定されるが、参考としてそのまま掲載する。
JST報告書では、有人宇宙船運用、宇宙飛行士運用、長期有人宇宙滞在、宇宙環境利用実験、有人宇宙探査の5つの技術的な側面から評価している。
有人宇宙船運用技術に関し、有人宇宙船の飛行実績のある国は、ロシア・米国・中国の3か国のみであり、そのうち米国だけが人類を月面に送り込むことに成功している。一方、有人宇宙船飛行回数では、ロシアと米国が累積で100回以上の実績を有しており、中国は神舟による6回の飛行にとどまる。
宇宙飛行士運用技術に関しては、旧ソ連のミールや国際宇宙ステーションなどの運用が行われてから、自国で有人宇宙船を所有していない国でも宇宙飛行士の養成や訓練が行われ、有人宇宙活動が行われるようになった。宇宙飛行士数でみると、米国は334人、ロシアは旧ソ連時代も含めて119人、欧州は47人、日本は12人、中国は11人である。また累積滞在日数では、米国は18,000日超、ロシアもソ連時代も加えると27,000日超、欧州はドイツの654日、イタリアの628日、フランスの567日等を合算し、2,500日超である。日本は、2015年に油井宇宙飛行士のISS長期滞在中に1,000日を超え1,184日であるのに対し、中国は「神舟11号」の飛行後で168日である。
長期有人宇宙滞在技術として、システム統合技術、有人モジュール技術、生命・環境維持技術、衛生・健康管理、物資補給技術、物資回収技術、ロボティクス技術などがある。中国はロボットアーム技術を有しないほか、他の項目でも米国やロシアと比較して実績が足りない。
宇宙環境利用は、宇宙環境利用は有人宇宙活動の1つの大きな目的である。旧ソ連と米国は、古くは1970年代のサリュート1号、スカイラブの有人宇宙船から現在の国際宇宙ステーションに至るまで宇宙環境利用実験を実施している。また欧州、日本も1990年代前半のユーレカやFMPT以降、継続的に宇宙環境利用実験を実施している。一方中国は、2000年前後から神舟シリーズで宇宙環境実験を行っているが、実績が少ない。
有人宇宙探査では、米国のアポロ計画による月探査しかないが、将来の有人探査を目指しての無人機での実績は中国を含めて他の国も有している。
以上の個々の評価を基にした、有人宇宙探査活動の評価結果を次表に示す。米国とロシアが先行しており、その後中国、日本、欧州と続いている。中国は、独自の有人宇宙飛行技術を有しているが、これまでの蓄積が米国やロシアと比較して少ないことからそれほど高く評価されていない。とりわけ、宇宙環境利用実験や有人宇宙探査技術で後れを取っている。
しかし、今後独自の宇宙ステーション天宮を運用する計画を進めば、急速に米国やロシアに近づいてくると想定される。
表 有人宇宙技術 評価結果(2015年版)
評価項目 | 満点 | 中国 | 米国 | ロシア | 欧州 | 日本 |
有人宇宙船運用技術 | 8 | 4 | 7 | 7 | 0 | 0 |
宇宙飛行士運用技術 | 10 | 7 | 10 | 10 | 7 | 7 |
長期有人宇宙滞在技術 | 14 | 9 | 14 | 12 | 7 | 9 |
宇宙環境利用実験技術 | 4 | 2 | 4 | 4 | 4 | 4 |
有人宇宙探査技術 | 4 | 1 | 3 | 1 | 2 | 1 |
合計 | 40 | 23 | 38 | 34 | 20 | 21 |