京師同文館の設立(1862年)

 京師同文館(京师同文馆)は、清朝の末期に当たる1862年に設立された教育機関である。当初は外国語習得機関であったが、徐々に近代科学も教える高等教育機関となり、辛亥革命の直前に設立された京師大学堂に吸収された。

洋務運動の一環で設立

 京師同文館は、洋務運動を主導した一人である恭親王奕訢えききんの建議により、外国語ができる人材の育成を目的として1862年に設立された。恭親王奕訢は、前年の1861年に洋務運動の開始を宣言した清朝の実力者で、当時の皇帝である同治帝の叔父に当たる。

 成立直後の専攻は英語のみで、学生は10名しかいなかった。2年目以降フランス語、ロシア語、ドイツ語などが追加され、募集人数も増えていく。さらに外国語だけでなく、天文学、数学、化学、医学、工学、西洋史、国際法の専攻が追加された。

京師同文館の授業風景
京師同文館の授業風景 百度HPより引用

教師は外国人宣教師が主体

 京師同文館では、教授を宣教師たちに依頼していた。1864年から米国人宣教師ウィリアム・マーティン(丁韙良ていいりょう)が教授に就任していたが、1869年には校長となり、マーティンのもとで教育課程が整備された。教育課程は8年間で、最初の3年間は語学を学び、残りの5年間で各専攻に分かれるというものであった。英語、フランス語、数学を専攻する学生が多かった。

京師同文館校長のウィリアム・マーティン
京師同文館初代校長の丁韙良 百度HPより引用

 当初宣教師などの外国人が主体であったが、設立に携わった曾国藩は徐々に優秀な中国人の登用を図り、李善蘭などを同文館の教授として推薦した。

 京師同文館では教育の他、翻訳作業も行い、1873年には出版会を開いた。これは中国で最も早い大学出版会であり、数多くの本を翻訳して出版した。

 京師同文館は、1900年に義和団の乱で閉鎖され、1902年に京師大学堂に吸収された。

参考資料

・宝鎖『清末中国の技術政策思想~西洋軍事技術の受容と変遷』臨川出版 2020年
・叢小榕『太平天国を討った文臣 曾国藩 (日本語)』総合法令、2000年
・百度HP 京师同文馆