Huanwu Peng(彭桓武)

はじめに

 彭桓武は、英国に留学して核物理学や理論物理学を学び、帰国後は両弾一星プロジェクトに貢献した科学者である。

彭桓武の写真
彭桓武 百度HPより引用

父は日本に留学した行政官

 彭桓武は、1915年に中国東北部にある吉林省長春市に生まれた。出産の直前に、母親が小熊が建物に侵入する夢を見たため、梦熊(夢熊)と名付けられた。その後、桓武と改名している。

 父・彭樹棠(彭树棠)は清朝の行政官であり、彭桓武が生まれた時期には吉林省で朝鮮半島に近い琿春県の県長であった。
 彭樹棠は、1873年に湖北省に生まれ、清朝末期の政治家・張之洞・湖北総督の推薦を得て、1897年に日本に留学し、早稲田大学法政学部に入った。日本では、孫文らの革命思想に触れた。
 彭樹棠は1904年に帰国したが、この時期に日露戦争が勃発したため、吉林省の延吉に赴任し国境管理や外交事務を担当した。その後も吉林省に留まり、地方行政を担当していた。

生い立ちと教育

 彭桓武は幼い頃病気がちであったため、余り活発に外遊びをすることがなく、自宅で父親などの蔵書で興味のあるものを探して読んだ。また、算数が得意で小さい頃に四則の計算も出来たという。
 ある時たまたま子供向けの雑誌「小朋友(小さな友達)」を見つけ、その中にあった読者向けの質問の答を編集部に送った。編集部は、彭桓武の回答に感心し、長い間無料で雑誌を送ってくれた。

 彭桓武は、地元の長春自強中学や吉林毓文中学に通ったが、成績が極めて優秀であったため、何度か飛び級をした。

 彭桓武は16歳となった1931年に、北京の清華大学物理学科に入学した。

日本軍の暴虐に遭遇

 清華大学入学直後の9月18日、東北部に駐屯していた日本軍が瀋陽郊外で柳条湖事件(九一八事変)を起こし、満州事変が始まった。長春にあった彭桓武の自宅は、日本軍に占拠されてしまった。

九一八事変記念館
瀋陽にある九一八事変の記念碑

 当時兄の彭夢仏(彭梦佛)も北京で勉学中であり、二人で会い激しく泣いた。そして、兄は直ちに前線に出て日本軍を追い出したいと言ったが、小さいときからそれほど健康に自信の無い彭桓武は、戦場には出ないが科学で国を救いたいと決意した。彭夢仏は、その後黄埔軍官学校を経て軍人となった。

 彭桓武は1935年に清華大学を卒業し、長春に戻り父・彭樹棠に会った。長春の至る所で、日本人が我が物顔で活動をしており、父・彭樹棠は日本人と関わりを持つことを嫌って門を閉ざしていた。
 彭桓武はやむなく北京に戻り、修士の学位取得を目指して清華大学で相対性理論などを学んだ。そして学科科目は終了し、論文を書き上げる直前となっていた1937年7月、今度は北京で盧溝橋事件が勃発し、北京は瞬く間に日本軍に占領されてしまった。

盧溝橋の写真
日中戦争の発端となった盧溝橋での筆者

 彭桓武は、やむなく他の教員や学生と共に、西部に疎開した。彭桓武は、この時期に奨学金を得て、英国に留学することとなった。

欧州に留学

 彭桓武は1938年に英国に渡り、スコットランドのエジンバラ大学に入学した。

 エジンバラ大学では、ドイツ人教授のマックス・ボルン(Max Born)に師事した。
 ボルンは1882年にドイツのブレスラウ(現在はポーランド領)に生まれ、量子力学など理論物理学を研究してゲッチンゲン大学の教授となったが、ユダヤ人排斥運動により大学を解雇されたため、1933年に英国に渡ってエジンバラ大学の教授となっていた。ボルンはその後、量子力学の波動関数における確立解釈論で、1954年にノーベル物理学賞を受賞している。

 彭桓武は、1941年にエジンバラ大学からPhDの学位を取得した。その後彭桓武は、ボルンの勧めもあってアイルランドのダブリン高等研究所にいたエルヴィン・シュレディンガー(Erwin Schrödinger)の研究室でポスドク研究を行った。
 1887年にオーストリア・ウィーンに生まれたシュレディンガーも、ボルンと同様に新たな量子力学の提唱者であり、ナチスに抗議しアイルランドに亡命していた。シュレディンガーは、1933年にノーベル物理学賞を受賞している。

 彭桓武(姓の英語はPeng)は、師シュレディンガーから中間子の研究をする様、指示された。彭桓武は、助教授であったハイトラー(Walter Heitler)、ポスドクであったハミルトン(James Hamilton)と3名で、中間子に係わる量子遷移確率の理論を発展させ、宇宙線のエネルギー分布と空間分布についての理論を公表した。この理論は3名のイニシアルを取ってHHP理論と呼ばれている。

 彭桓武は1945年7月に、教授に昇進したハイトラーの後任として、ダブリン高等研究所の助教授となった。

中国に帰国

 彭桓武は、1947年に中国に帰国した。

 彭桓武の師であるボルンもシュレディンガーも、彭桓武の能力を惜しみ彭桓武に対しアイルランドに留まるように説得したが、彭桓武はこれに対して「故国に帰るのには理由はいらない、故国に帰らないであれば理由が必要である(因为回国不需要理由,不回国才需要理由)」と述べ、恩師の説得を断った。

 帰国した当時の中国は国共内戦中であり、まだ国情が混乱していた。やむなく彭桓武は、雲南大学、北京大学などいくつかの大学で教鞭を取って政情が安定するのを待った。

近代物理研究所に入所、両弾一星に従事

 1949年に中国共産党が国民党に勝利すると、彭桓武は他の物理学者と共に原子力研究を行う研究所の設立に奔走し、新中国建国後に中国科学院近代物理研究所(現在の中国原子能科学研究院)が設立されると、その研究員となった。所長は呉有訓であり、副所長は銭三強であった。

 中国政府は、1955年頃から両弾一星政策を開始した。1958年には原子力工業と核兵器開発を所管する「第二機械工業部」が設置され、技術責任者には銭三強が就いた。彭桓武は、銭三強の指揮の下、原子爆弾製造のための基礎理論研究を進め、核兵器設計に貢献した。彭桓武の下には、周光召于敏などがいた。

 中国初の核実験は1964年に、新疆ウイグル自治区で成功した。続いて、彭桓武らは水素爆弾の設計作業に従事し、1967年6月、中国初の水爆実験に成功した。

43歳で結婚

 両弾一星で忙しい毎日を送っていた1958年のある日、彭桓武は母から帰郷を促す手紙を受け取った。急いで帰郷した彭桓武を待っていたのは、劉秉嫺(刘秉娴)という見知らぬ女性であった。劉秉嫺は山東省に生まれ、それまで青島や上海などで看護・医療業務に従事し、北京では保育士として働いていた。
 彭桓武は、劉秉嫺と会った後、彼女に「私は洗濯も料理も知りません。服の着方は知っていますが、世間について何も知らず、役人となって権力を握ることに興味がありません」という手紙を書いた。すると、劉秉嫺は返事の手紙を送り、「あなたに洗濯や料理の仕方が分からないなら、私がします。あなたが世間を理解できないなら、私が理解します。あなたが役人になるのが嫌なら、それで結構です。」と答えた。こうして、二人は結婚した。彭桓武は43歳になっていた。

 彭桓武は結婚した後、妻・劉秉嫺の細やかな配慮のおかげで家事から解放され、服装はきれいになり、外食する頻度も減った。そして、新中国の最大のプロジェクト出る両弾一星の開発に全力を注ぐことができた。二人の間には男の子・彭遠征(彭远征)も生まれた。

彭桓武一家 紫星薇辰HPより引用

 しかし、劉秉嫺との幸せは長く続かなかった。結婚して14年後の1972年に、劉秉嫺は閉塞性血栓炎となって自宅療養を余儀なくされた。さらに、その5年後の1977 年に、劉秉嫺は進行性肺がんに侵され、亡くなった。19年間の結婚生活であった。

晩年

 両弾一星の仕事を終えた彭桓武は、理論物理学の研究への復帰を望み、1973年に新型加速器建設のために設置された中国科学院高エネルギー物理研究所の副所長として配属された。

 中国科学院理論物理研究所(理论物理研究所)が1978年に新設されると、彭桓武は初代所長となった。

理論物理研究所の外観写真
中国科学院理論物理研究所  理論物理研究所HPより引用

 所長としての5年の任期を終えると、彭桓武はかつての部下であった周光召を次期所長に推薦し、名誉所長となった。

 両弾一星での貢献は極めて大きく、中国政府などから多くの賞を彭桓武は受賞している。
 1982年に国家自然科学一等賞、1985年に国家科学技術進歩特等賞を受賞した。1995 年に、民間のホー・リョン・ホー・リー基金(何梁何利基金)から科学・技術成就賞を受賞した。
 そして1999 年に、彭桓武は「両弾一星功労勲章(两弹一星功勋奖章) 」を受賞した。この賞は新中国建国50周年を記念して、中国共産党中央、国務院、中央軍事委員会が、両弾一星政策に貢献した科学技術専門家23名に授与したものである。受賞者の中には、銭学森鄧稼先趙九章などの著名な科学者が含まれている。

 第一戦を退いたが、彭桓武の知識欲は衰えず、相対性理論などに関する論文を引き続き発表していた。しかし、90歳となった彭桓武に、また不幸が襲う。米国で活躍していた長男の彭遠征が、がんで亡くなったのである。

 彭桓武は2007年に、北京で亡くなった。92歳であった。
 彭桓武は、自らの財産や書籍は理論物理研究所などに寄付すること、臓器は移植のために提供すること、両弾一星功労勲章は軍事博物館に寄贈すること、葬儀はできる限り簡素に行うことなどを遺言していた。 

参考資料

・中国科学院HP 彭桓武:物理天工总是鲜 https://www.cas.cn/xzfc/202002/t20200203_4733336.shtml
・中国科学院高能物理研究所HP 彭桓武 https://ihep.cas.cn/kydw/yszj/ygys/202304/t20230424_6744058.html
・中国科学院理论物理研究所HP http://itp.cas.cn/
・图们江报电子版 清末民初珲春知县彭树棠 
http://tmjnews.cn/paper.asp?Aid=8062&Fid=1053
・紫星薇辰HP 两弹元勋彭桓武,不会洗衣不会做饭,43岁结婚,80岁把奖金全捐了
https://baijiahao.baidu.com/s?id=1777631176810936970&wfr=spider&for=pc
・捜狐HP 1985年,女记者问彭桓武为什么要回国?他大怒:为什么不回国 https://www.sohu.com/a/743984665_121161807