はじめに

 于敏は、機密保持のため名前を伏せながら水爆の理論研究に従事し、水爆実験成功に貢献した。その功績から、中国で水爆の父と呼ばれている。

于敏の写真
于敏 百度HPより引用

生い立ちと教育

 于敏は、1926年に河北省寧河区(現在の天津市)で生まれた。

 地元で基礎教育を受けた後、北京大学の工学部に入学した。その後理学部に転入して物理学を専攻した。1949年に学士号を取得、さらに1951年に大学院を卒業して、銭三強呉有訓の後を継いで所長を務めていた中国科学院現代物理学研究所に入所した。

水爆開発を命じられる

 于敏に転機が訪れたのは1960年末である。銭三強の命を受け、水爆開発に従事することになったのである。于敏は基礎研究の興味を示していたが断念し、また機密保持のため旅行の自由や友人などとの交流も厳しく制限された。もちろん、外国への旅行は厳禁となり、留学の機会も奪われた。
 当時の中国の科学的な装置は貧弱なものであり、水爆開発の理論計算をしようにも低速のコンピュータしか無く、于敏らは寝食を惜しみ計算尺まで援用して開発に当たったという。

 ロプノールでの原爆実験の成功後の1965年、于敏は第二機械工業部の第九研究院に配置換えとなった。上司は銭三強と鄧稼先らであった。この新しい部署で于敏は水爆開発の理論的研究を加速し、1967年にはロプノールで中国発の水爆実験が成功している。

核融合研究の先鞭を付ける

 水爆実験終了後、于敏は核融合研究の重要性を提唱した。当時は文化大革命の最中であり中国政府に受け入れられなかったが、文革後の1988年に、王淦昌王大珩らとともに鄧小平に核融合研究の重要性を訴え、中国の国家重要プロジェクト(863計画)の一つとすることに成功した。

 于敏は、1999年に両弾一星功労勲賞を、2014年に国家最高科学技術賞を受賞している。彼は、中国で「水爆の父(氢弹之父)」と呼ばれている。于敏は2019年に、93歳で死去している。

参考資料

・中国科学院HP「于敏院士生平」 https://www.cas.cn/zt/rwzt/qmj2020/ym/sp/202004/t20200402_4739648.shtml