はじめに

 王大珩は東京生まれであり、清華大学を卒業後英国に留学した。帰国後に両弾一星政策に参加し、核爆発観測用や人工衛星用の光学装置の開発を行った。

863計画を提言した王大珩
王大珩 百度HPより引用

生い立ちと教育

 王大珩おうだいこうは1915年に、日本の東京で生まれた。父の王應偉けいいは気象学者であり、日本の東京物理学校(現在の東京理科大学)を卒業した後、日本の中央気象台(現在の気象庁)で働いていたときに生まれたのである。同年、父の帰国に伴い王大珩も連れられて帰国した。

 王大珩は、基礎教育を受けた後、清華大学の物理学科に入り、1936年に卒業した。王大珩は英国公費留学生となり、1938年にインペリアル・カレッジ・ロンドンに入学して応用光学を専攻した。1941年には、英国シェフィールド大学に転入した。

清華大学教授

 王大珩は1948年に帰国し、当時厳済慈が所長を務めていた北平研究院物理研究所に勤務した。1949年には大連理工大学の設立に参加し、同大学の教授兼物理学科主任となった。

 新中国建国後の1952年、吉林省長春に中国科学院機器館(現在の長春光学精密機械・物理研究所)が設立され、王大珩はその責任者となった。1955年には、中国科学院学部委員(現院士)に選出されている。

両弾一星で光学装置を開発

 1960年代に入り両弾一星政策が本格化すると、核兵器開発や宇宙開発に係わる光学測定装置の開発を行った。核爆発観測用の高速カメラの開発を行って、1964年の中国発の核実験に参加した。また、宇宙からの地上偵察カメラの開発も行った。両弾一星政策は、主として国防関係の研究機関で実施されたが、中国科学院もこのように機器開発や、人材養成で大きな役割を果たした。

中国工程院設立を提唱

 王大珩のもう一つの大きな貢献は、中国工程院の設置である。中国科学院は設立以降、基礎科学、応用科学、工学などから社会・人文科学に及ぶ範囲を所掌分野としていた。1991年、中国科学院の学部の一つである技術科学部が、国際的な組織である国際工学アカデミー連合(CAETS)のメンバーとなるべく申請を行ったが、技術科学部が中国科学院の一部であるとの理由で申請が認められなかった。

 このため王大珩ら6名の技術科学部に属する学部委員が、翌1992年に早期に中国工程・技術科学院を設置すべきという意見書をまとめ、政府に提出した。この意見書を受けて、中国工程院が1994年2月に、中国科学院から分離独立する形で設置され、無事に国際組織に参加できた。

 王大珩は、2011年に96歳で亡くなっている。

参考資料

・马晓丽「王大珩传」中国青年出版社 2015年
・CAS HP https://www.cas.cn/zt/rwzt/wangdaheng/