はじめに

 鄧稼先は、日本ではそれほど有名ではないが、中国ではその生涯が何度か映画化されて「両弾元勲」とも呼ばれており、銭学森と並んで人気が高い。

鄧稼先の肖像写真
鄧稼先 百度HPより引用

生い立ちと基礎教育

 鄧稼先(邓稼先)は、1924年に安徽省懐寧(現在の安慶市)で生まれ、生後9か月で北京に移った。鄧稼先の実家は教育者などを輩出した名門であり、6代前の先祖である鄧石如は清代の著名な儒家・書家であった。祖父や叔父達も多くが教育者となっている。鄧稼先の父親は鄧以蟄(とういちつ)であり、日本へ留学して早稲田大学で文学を学んだ後、さらに米国のコロンビア大学に留学し哲学と美学を学んでいる。その後、帰国して1923年から北京に住み、清華大学や北京大学で教鞭を執っている。

 1936年、12歳となった鄧稼先は北京の崇徳中学に入学した。崇徳中学の2年上には、後にノーベル賞学者となる楊振寧がいて、親しく交わった。楊振寧の父楊武之と鄧稼先の父鄧以蟄は、共に清華大学教授であり、同じ安徽省出身者として友人だったのである。

 1937年盧溝橋事件が勃発し、その22日後に北京は日本軍に占領されてしまう。占領を喜ぶ日本軍に強い屈辱感を抱いた鄧稼先は、日本の国旗を引き裂き何度か踏みつけた。日本軍の北京占領により、北京大学と清華大学は北京を離れ、やはり日本軍に占領された天津にあった南開大学とともに三大学で国立西南連合大学を結成し、雲南省昆明に疎開した。多くの教師が同大学の移転とともに大陸西部に移動したが、鄧稼先の父は当時肺病を患っていて喀血もあったため、家族共々北京に留まり、鄧稼先も引き続き北京で中学生活を送った。

 日本軍の圧迫がより強くなった1940年、父鄧以蟄は鄧稼先の姉に命じて、日本軍の影響の及んでいない大陸西部に鄧稼先を疎開させた。別れの際、父は鄧稼先に「科学は国家のために有用であり、今後は『文(=文科全般)』を学ばず『科学』を学びなさい(要学科学、不要学文、科学対国家有用)」と諭したという。日本軍の圧迫下にあったとはいえ、先祖代々の鄧家の学問である「文」を棄て新しい「科学」の学習を子供に諭したことは、父鄧以蟄にとって断腸の思いであったろう。鄧稼先は、この父親の言葉を胸に深く刻んでいる。

高等教育、米国留学、帰国と結婚

 雲南省や四川省で中等教育を終了した鄧稼先は、1941年に国立西南連合大学に進学した。同大学には、旧知の楊振寧が3年前の1938年に入学しており、楊が1945年にシカゴ大学に留学するまで共に物理学科で学んでいる。

 鄧稼先は、1945年に西南連合大学を卒業、翌1946年に北京大学の助教となった。その後米国留学生試験に合格し、1948年に米国インディアナ州にあるパデュー大学大学院に留学の後、1950年に物理学でPhDを取得した。

 鄧稼先が博士号を取得する前の1949年10月に中華人民共和国が建国され、同国政府は世界に散らばっていた中国出身の科学者・技術者に帰国するよう働きかけた。鄧稼先はこの働きかけに応じ、卒業のわずか9日後に帰国の旅路についている。

 帰国した鄧稼先は、原子核物理における理論研究の新しい局面を切り開くため、呉有訓銭三強何沢慧夫妻らとともに、中国科学院に近代物理研究所を設置する準備に奔走した。

 また、私的には1953年に解剖学者の鹿希(许鹿希、きょろくき)と結婚している。許鹿希は鄧稼先の4つ年下で上海生まれの女性であり、結婚の年に北京医学院(現北京大学医学部)を卒業し、その後解剖学教室に留まり教鞭を執っている。

両弾一星プロジェクトと文革での試練

 鄧稼先が帰国した頃、両弾一星政策が中国政府で開始された。鄧稼先は1958年に、原子力工業と核兵器開発を所管する「第二機械工業部」に設置された第九研究院の設計主任に任命された。第二機械工業部の技術責任者は銭三強である。鄧稼先は、銭三強の指揮の下、爆発物理、流体力学、熱力学の状態方程式、中性子輸送理論などの原子爆弾製造のための基礎理論研究を進め、核兵器設計に貢献した。

 中国初の核実験は1964年に、新疆ウイグル自治区で成功した。鄧稼先らは続いて水素爆弾の設計作業に従事したが、1965年末に文化大革命が開始される。文革では、既存の教育や研究組織が批判と破壊の対象となったため、両弾一星政策も危機に瀕したが、周恩来の庇護や鄧稼先らの努力の甲斐あって、1967年6月に初の水爆実験が成功した。

 しかし、その後も核開発を進めていた鄧稼先のグループに文革の魔の手が迫った。1970年に第九研究院の青海省の工場が文革派の査察を受けた際、爆薬の専門家・銭晋が反革命の汚名を着せられ撲殺される事件が起こった。このため、銭晋の上司であった鄧稼先らへの追求と迫害が懸念された。
 この機に一つの偶然が鄧稼先を救うことになる。1971年4月に米中ピンポン外交が展開され、同年7月、古くからの友人でノーベル賞を受賞していた楊振寧が中国への里帰りを許可された。楊振寧は中国で会いたい人物のリストの最上位に鄧稼先の名前を記して招待者の周恩来に提出し、これを受けて周恩来は鄧稼先を無事に北京に連れ戻した。数十年ぶりの再開に二人が感激したのは言うまでもない。

核開発に殉じた死

 鄧稼先は、その後も1972年に第九研究院副院長、1979年に同院院長となって原水爆の開発に尽力した。核実験の行われた現場に常にいて、設計の際の理論と実際の核実験の結果の照合を行い、より精度の高い核兵器設計理論の構築を目指した。

 しかし、1979年の実験の際、事故により原子爆弾が墜落して破壊されてしまった。鄧稼先は、危険を顧みず現場視察を行い、壊れた原子爆弾の破片を手に取り、結果として被曝した。医学者である妻の許鹿希は仰天し、鄧稼先を病院に連れ出し検査をさせたところ、尿に放射性物質が含まれるほど被曝しており、肝臓や骨髄にもダメージを受けていることが判った。それでも鄧稼先は、核実験の現場に戻ることに執着した。

 1985年に鄧稼先は身体に異常を来し、病院で直腸癌と判定された。長年の核実験の現場視察による放射線障害であった。北京での闘病生活にもかかわらず病状は悪化し、三度目の手術が行われた後に発生した大量出血により、鄧稼先は1986年7月に逝去した。享年62歳であった。

 1999年、鄧稼先は両弾一星功勲奨章を追叙された。核兵器の開発に心血を注ぎ、結果として核開発に殉じたことを中国国民は深く受け止め、鄧稼先を「両弾元勲」と称えている。

参考資料

・許鹿希等「鄧稼先伝」安徽人民出版社 1999年
・田丰「両弾元勲(鄧稼先伝)」長春出版社 2017年
・百年瞬间丨两弹元勋邓稼先 https://www.12371.cn/2021/08/03/VIDE1627949703659421.shtml