はじめに
趙忠堯(赵忠尧)は、カリフォルニア工科大学に留学しノーベル賞クラスの実験を行った後、中国の原子科学の研究と教育の発展に尽力した。

生い立ちと教育
趙忠堯(赵忠尧、Chung-Yao Chao)は、1902年に現在の浙江省紹興に生まれた。趙忠堯の生家は名家であった。父は医者であり正直な人であったが、それほど豊かではなかった。
1920年、趙忠堯は江蘇省の南京高等師範学校(現在の南京大学)に入学した。趙忠堯は同校で化学、数学、物理を履修するも、1924年に父親が死去したため同校の物理担当助教として務め、引き続き勉学に励んだ。翌1925年に趙忠堯は、南京高等師範学校から改称した国立東南大学を卒業し、理学士を取得した。
趙忠堯は、学士号取得後も引き続き東南大学に残り助教として研究を続けていたが、同大学での師であった葉企孫(叶企孙)教授が1925年に北京の清華学校(現在の清華大学)に転勤したのを機として、自らも清華学校に移動した。
米国に留学し、ノーベル賞受賞の元になる実験を実施
趙忠堯は、1927年に米国に赴き、カリフォルニア工科大学に留学し、4年前の1923年に電気素量の計測と光電効果の研究によりノーベル物理学賞を受賞したロバート・アンドリューズ・ミリカン(Robert Andrews Millikan, 1868年~1953年)教授に師事した。

ミリカンは趙忠堯に対し、「物質中の硬ガンマ線の吸収係数」に関する実験テーマを与えた。趙忠堯は1929年末に、硬ガンマ線の高エネルギー光子ビームが重金属鉛を通過する際に「異常吸収」現象を示すことを発見した。この現象に基づいて、趙忠堯は「硬ガンマ線吸収係数の測定」と題する論文を書き、1930年5月に米国科学アカデミー紀要に発表した。後に判ったことであるが、これは電子-陽電子対生成に関する最も初期の実験的証拠であった。
趙忠堯は、硬ガンマ線と物質の相互作用のメカニズムを明らかにするために、重元素による硬ガンマ線の散乱を観察することとした。趙忠堯は数か月後、余分な散乱線を発見し、この放射線のエネルギーは電子の静止質量とまったく同じ大きさである 0.5 MeV と確認した。この発見についても、1930年10月にアメリカの雑誌・フィジカル・レビューに、「硬ガンマ線の散乱」と題する論文として掲載された。
ところが、これらの論文公表後、他の研究者による追試が実施されたが、一人は誤った方法に趙忠堯の実験結果を再現できず、もう一人は機器の感度が十分でなかったため、ソフトガンマ線を観測できなかった。
一方、ミリカン教授の下で宇宙線を研究していたカール・デイヴィッド・アンダーソン(Carl David Anderson、1905年~1991年)は、1932年に宇宙線を撮影した霧箱の写真に予想外の粒子の痕跡を見つけ、これを電子と同じ質量で逆の電荷を持つ粒子が作り出したと解釈し、ディラックが既に予測していた陽電子であるとする論文を公表した。これは他の研究者によっても確認された。
これにより、アンダーソンは1936年にノーベル物理学賞を受賞した。
中国では、この1936年のノーベル物理学賞に関し、趙忠堯が何故受賞者に加わらなかったのかと、当時のノーベル賞選考委員会の決定を疑問視する意見がある。
帰国して清華大学へ
趙忠堯は、1930年にカリフォルニア工科大学から博士学位を取得し、その後ドイツでポスドク研究を行った後、1931年に英国ケンブリッジ大学に行き、アーネスト・ラザフォード(Ernest Rutherford、1871年~1937年)の下でも研究を行った。
趙忠堯はその後中国に帰国するが、その際ラザフォードは中国での実験用にとラジウム50ミリグラムを趙忠堯に与えた。趙忠堯は、このラジウム50ミリグラムを鉛で遮蔽した容器に入れ、大切に中国に持ち帰った。
帰国した趙忠堯は、恩師・葉企孫の招聘で清華大学の物理学科教授となった。
日中戦争勃発を受け、ラジウムを運ぶ
1937年に日中戦争が始まり、北京は日本軍に占領されてしまう。趙忠堯は、日本軍が占領している清華大学キャンパスに潜入し、ラザフォードから貰ったラジウム50ミリグラムを実験室から持ち出した。
当時清華大学は、日中戦争の戦火を避けるため、北京大学や天津の南開大学と共に内陸部にある湖南省長沙に移動していた。
そこで、趙忠堯は北京から長沙までの約1,400キロメートルの道のりを単身歩いて向かうこととした。
ぼろぼろの服に着替え、物乞いに変装し、ラジウムの入った小さな壺を抱え、昼間は身を隠し、夜間に移動した。途中、盗賊や日本兵にも鉢合わせしたが、無一文で食べ物を乞うているのだと言ってごまかした。30日間かけて、北京から長沙にたどり着き、先行していた梅貽琦・清華大学学長一行と合流した。
その後、日本軍は、1937年11月に上海を、同年12月に南京を占領したため、湖南省長沙に移ってわずか4か月後にさらに大陸奥地にある雲南省昆明に向けて移動し、1938年5月、三大学合同で「国立西南連合大学」を雲南省昆明に開校した。趙忠堯も、この移動に加わり、昆明で研究と教育を続行した。
乞食に扮して30日間かけて運んだラジウム50ミリグラムは、国立西南連合大学の核物理や核化学などの実習に使われ、その役割を十分に果たしたという。
原爆実験を視察
1945年に、日本が第二次世界大戦に敗北し、日本軍が中国大陸から撤兵した。このため、国立西南連合大学は廃止となり、それぞれの大学は元あった北京と天津に復帰することとなった。
1946年、米国がビキニ環礁で核実験を行う際、連合国側の英国、フランス、ソ連に加えて中国にも招聘状を出した。趙忠堯は、中国を代表してビキニ環礁に赴き、同環礁から25キロメートル離れた位置に停泊していた米国駆逐艦から、核実験によるキノコ雲を見た。
その後、趙忠堯はMITやカリフォルニア工科大学に赴き、原子物理学や宇宙線の研究に関する調査と研究を行った。
この核実験視察やその後の米国内での研究は、後の両断一星政策に反映された。
晩年
趙忠堯は1950年に米国から帰国し、同年に中国科学院に設置された近代物理研究所(後の原子能研究所)の研究員となった。
1958年には、中国科学技術大学の教授となり、現代物理学科の創設に尽力し、初代の学科主任となった。
文化大革命が始まると趙忠堯は、株を所有していたり、米国との交流があったりしたことから、革命派の迫害対象となり養鶏場に閉じ込められたこともあったが、何とか生き延びた。
文革中の1972年に、当時原子能研究所の副所長であった張文裕は、趙忠堯らの物理学者らと共同(全体18名)で周恩来国務院総理に書簡を送り、中国の素粒子物理学や高エネルギー物理学研究のために新しい加速器の建設が不可欠であると提案した。これが受け入れられ、中国科学院は、翌1973年に中国科学院原子能研究所から分離・独立させる形で「高エネルギー物理研究所(高能物理研究所)」を設置し、趙忠堯は実験担当の副所長となった。
1998年、趙忠堯は病を得て北京で亡くなった。享年96歳であった。
参考資料
・澎湃HP 院士说丨赵忠尧:“大师们的老师” https://m.thepaper.cn/baijiahao_19072968
・中国科学院高能物理研究所HP 赵忠尧 “蘑菇云”的打造者—赵忠尧与南京大学
http://www.ihep.cas.cn/kxcb/kxrw/zhaozhongyao/200909/t20090923_2515309.html
・東南大学校友総会HP 与诺贝尔奖擦肩而过——两弹功勋赵忠尧院士诞辰100周年祭
https://seuaa.seu.edu.cn/2008/0912/c1970a27963/page.htm
・无风却起念 他扮作乞丐,昼伏夜出行走1400公里,若没他,我国原子弹恐难成功
https://baijiahao.baidu.com/s?id=1812358555247748508&wfr=spider&for=pc