両弾一星政策の開始(1956年)

 両弾一星政策の開始は1956年頃であり、第二次世界大戦の戦勝国としての立場を確保することをも念頭に、核兵器・ミサイル開発と人工衛星開発を決断した。

両弾一星政策の開始に至る経緯

 建国直後の1950年6月に朝鮮戦争が始まり、同年12月中国は義勇軍を派遣して戦争に加わった。膠着状態に陥った戦線を打開するため、国連軍のマッカーサー総司令官が中国への核兵器を含む攻撃を主張したことを毛沢東らの中国共産党幹部は厳しく受け止め、第二次世界大戦の戦勝国としての立場を確保することをも念頭に、核兵器開発を決断することになった。
 中国が頼ったのは、1949年に原爆実験を1954年に水爆実験を成功させていたソ連であった。中国は、中ソ友好同盟相互援助条約や中ソ科学技術協力協定などに基づき、ソ連から原爆開発の協力を受ける準備を整えていった。

 一方、第二次世界大戦後の新たな軍事技術として注目されたのは、ミサイルとロケット技術である。ナチスのV2ロケットの技術や資材を獲得したソ連は、コロリョフらの努力によりミサイルやロケットの技術開発を進め、1948年にミサイルを、1957年8月には大陸間弾道ミサイル(ICBM)であるR-7ロケットを、そして同年10月には人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功し、米国を圧倒した。
 中国はこれらの状況を見て、核兵器の開発だけではなくミサイルやロケットの開発を同時に行うこととし、これについてもソ連の協力を仰ぐとともに、米国から帰国した銭学森らにミサイルとロケットおよび人工衛星の開発を指示した。

 この二つの流れが一体となったのが「両弾一星」戦略であり、「両弾」は核兵器(原爆・水爆)とミサイル、「一星」は人工衛星を指す。

 すでに述べた1956年の科学技術発展遠景計画綱要が根拠となって、国家一丸となっての両弾一星戦略が開始された。1956年4月、人民解放軍を管轄する中国共産党中央軍事委員会に航空工業委員会を設置し、ミサイル開発を担当させた。同年10月、中央軍事委員会に第五研究院を設置し、米国から帰国した銭学森を院長に任命した。同年11月、国務院に第3機械工業部を設立し、原子力開発を担当させた。1958年には、中央軍事委員会は航空工業委員会を改編して国防科学技術委員会を設置し、国務院の副総理で国家科学技術委員会主任の聂荣臻元帥に主任を兼務させた。これにより、人民解放軍と国務院が力を合わせ国内の研究機構と科学者を動員する形で、両弾一星戦略を推進していくこととなった。

両弾一星政策の進展

 最初に成果を挙げたのがミサイル開発であり、ソ連から供与されたR-2ミサイルをリバースエンジニアリングして複製することにより、1960年に初めてのミサイル「東風1号(DF-1)」を打ち上げ成功させた。

 しかし、フルシチョフがスターリン批判を開始すると、友好的であった中ソ関係は徐々に対立状態となり、1960年にはソ連の技術的援助は無くなった。以降中国は、ミサイル開発や原子爆弾の開発を独力で進め、1964年10月、新疆ウイグル自治区のロプノールで初の核実験に成功した。さらに同月には、核弾頭を装備した東風2号Aミサイルを酒泉衛星発射センターより打ち上げ、20キロトンの核弾頭が新疆ウイグル自治区ロプノール上空で爆発した。これによって、両弾一星の両弾の部分(核兵器とミサイル)の開発に成功した。

 両弾一星政策の一星の部分が完成するのは、文化大革命中の1970年4月である。

参考資料

・百度百科HP 『两弹一星