Wenyu Zhang(张文裕)

はじめに

 張文裕(张文裕)は、高エネルギー物理研究所設立の端緒となった加速器建設を周恩来総理に提案し、その建設運営のため同研究所が設立されると初代の所長を務めた。中国の高エネルギー物理学を先導した科学者である。

高エネルギー物理研究所初代所長・張文裕
高エネルギー物理研究所初代所長・張文裕 百度HPより引用

生い立ちと教育

 張文裕は、1910年に福建省泉州市の恵安に生まれた。泉州市は福州市の南西で厦門の北東にあり、海峡を隔てて台湾と向き合う位置にある。恵安は、古くから良質の花崗岩の産地として知られ、日本などへの墓石などの輸出が盛んである。

 張文裕は、私塾に通った後、地元の小学校や中学校で基礎教育を受けた。中学校の成績が優秀であったため、1927年に通っていた泉州培元中学の校長が燕京大学物理学科へ特例的に推薦してくれた。

燕京大学で物理学を専攻

 燕京大学(Yenching University)は、英国と米国の教会団体が北京に設置していた3校を併合する形で、1919年に設立されたキリスト教系の大学である。燕京大学は1926年に、米国の富豪などの寄付を得て、北京郊外に新たなキャンパスを設置し、神学部、法学部、医学部、理学部などを設置した。
 日中戦争中は、米国の支配下にある大学と見なされ、治外法権であったが、太平洋戦争の勃発と共に日本軍に占領されて大学は閉鎖された。対戦終了後に再び北京に開校したが、新中国建国と共に共産党に接収され、1952年の院系調整により大学は北京大学や清華大学に再編され、敷地は北京大学に移管された。

燕京大学の写真
燕京大学   百度HPより引用

英国ケンブリッジ大学に留学

 張文裕は、1931年に燕京大学物理学科を卒業し、同大学の教員となった。その後、英国への公費留学生に選ばれ、1935年に英国ケンブリッジ大学に留学した。
 張文裕は、ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所でアーネスト・ラザフォード(Ernest Rutherford)に師事し、原子核物理学を専攻した。ラザフォードは、α線とβ線の発見、ラザフォード散乱による原子核の発見、原子核の人工変換などの業績により「原子物理学の父」と呼ばれ、1908年にノーベル化学賞を受賞している。

 張文裕は1938年に博士の学位を取得し、一旦中国に帰国するが、当時は日中戦争で国内ではほとんど研究が出来ないと考え、1943年に渡米しプリンストン大学やパデュー大学で教授を務めた。

 張文裕は1956年に帰国し、当時の中国科学院物理研究所(後の原子能研究所)の研究員となり、宇宙線の研究などを行い、その後原子能研究所の副所長となった。1957年に米国籍の中国人である楊振寧李政道がノーベル物理学賞を受賞すると、張文裕はその授賞式に中国科学院を代表して派遣されている。

周恩来に新型加速器建設を提案

 張文裕は、1964年頃から世界最先端の電子・陽電子衝突型加速器を構想し、文化大革命中の1972年8月に、他の物理学者らと共同(全体18名)で周恩来国務院総理に書簡を送り、中国の素粒子物理学や高エネルギー物理学の研究レベルを世界的なものとするために新しい加速器の建設が不可欠であると提案した。

 周恩来総理は翌9月に書簡を発出し、「この問題はこれ以上遅らせてはならない。中国科学院は高エネルギーの基礎研究と理論研究を行うと共に、理論を実験で確認する必要がある。高エネルギー加速器建設の準備研究は、中国科学院主要プロジェクトの一つとすべきである」と張文裕らに指示した。

周恩来総理の加速器建設指示の文書
張文裕への周恩来総理の指示書簡  高エネルギー物理研究所HPより引用

 張文裕は、この周恩来総理の指示を受けて、関係者とともに欧米を視察し加速器建設の準備を進めた。
 そして中国科学院は、翌1973年に中国科学院原子能研究所から分離・独立する形で「高エネルギー物理研究所(高能物理研究所)」を設置し、その初代の所長に張文裕が就任した。
 1973年に高エネルギー物理研究所が設立されたものの、当時は文化大革命の最中であり四人組の影響下にあったため、加速器の建設はほとんど進展がなかった。

加速器BEPCの建設

 1976年末に文革が終了し鄧小平が復活すると、この加速器プロジェクトは動き始めた。1979年の鄧小平訪米に同行した方毅中国科学院院長は、シュレジンジャー・エネルギー省長官と間で、加速器建設の米中協力を合意した。

 中国科学院と高エネルギー物理研究所で準備作業が行われ、新型の加速器を北京郊外の玉泉路に設置することとした。加速器は、「BEPC(Beijing Electron Positron Collider:北京電子・陽電子衝突型加速器)」と命名された。
 そして1982年6月に、21名の科学者からなるチームが米国スタンフォード大学線形加速器センターを訪問し、意見交換を行ってBEPCの予備設計や建設のためのパラメータなどを決定した。
 張文裕は、この間高エネルギー物理研究所の所長として、一貫してBEBCの建設準備の指揮を執った。

 1984年10 月、鄧小平・最高指導者が出席して、BEPCの着工式が行われた。張文裕は、このBEPCの建設着工式を見届ける形で、高エネルギー物理研究所の所長を退任した。

加速器の起工式の鄧小平の写真
BEPC起工式での鄧小平  高エネルギー物理研究所HPより引用

 4年後の1988年10月にBEPCが完成すると、鄧小平は直ちに同加速器を視察し、「中国は世界のハイテク分野で地位を占めなければならない(中国必须在高科技领域占有一席之地)」と演説を行った。
 張文裕は既に78歳となっていたが、高エネルギー物理研究所名誉所長としてこの日を迎えることが出来た。BEPCの完成は、中国における大型加速器研究の幕開けとなった。

 その4年後の1992年に、張文裕は病を得て北京で亡くなった。享年82歳であった。

参考資料

・中国科学院高能物理研究所HP 张文裕 https://ihep.cas.cn/kydw/yszj/ygys/202210/t20221010_6521764.html
・科技人物 | 张文裕:排除万难回国,联名17位科学家向周总理倡议,建设中国自己的高能加速器 https://m.thepaper.cn/baijiahao_20056268