はじめに
王承書(王承书、1912年~1994年)は、米国に留学して流体力学などを学んで帰国し、核融合技術やウラン濃縮技術開発で成果を挙げた女性物理学者である。

生い立ちと教育
王承書は、1912年に湖北省武昌(現在の武漢市)に生まれた。父は、科挙の進士に合格し清朝政府から留学のため日本に派遣されて帰国し、警察行政に携わり警察学校の教授も務めた。
王承書は2番目の子供であった。名前の付け方であるが、宗族の世代ごとに共通する漢字(輩行字)として「承」をまず用いた。その後に、一人一人に特有の漢字を付けるという習慣に従い、中国の古典である五経(『詩経』『書経』『礼記』『易経』『春秋』)に従って選択した「詩、書、礼、易」で2番目の「書」を付したのである。
王承書は、小さい時から数学の才能に恵まれ、家族に勘定などの計算を頼まれるのが常であった。ただ体が弱く、小学6年と中学3年の時に、それぞれ1年間の休学を余儀なくされた。
それでも王承書は、18歳となった1930年に、北京の燕京大学の物理学科に合格した。入学を許されたのは全体で13名であったが、女性合格者は彼女一人であった。1934年に同大学を卒業するが、その時に卒業を許されたのは王承書を含めわずか4名で、彼女はトップの成績であった。
さらに王承書は、燕京大学大学院に進学し、1936年に修士の学位を取得した。
張文裕と結婚
王承書は、1939年に物理学者の張文裕と結婚した。

張文裕は1910年生まれで、王承書の2歳年上である。燕京大学物理学科を1931年に卒業し、英国ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所でラザフォードに師事して原子核物理を専攻し、1938年に博士学位を取得して中国に帰国した。
ミシガン大学に留学し、ウーレンベック教授に師事
王承書は、張文裕との結婚後も物理学習得の情熱は衰えず、1941年に米国の奨学金を獲得し単身で米国に赴き、ミシガン大学のジョージ・ウーレンベック(George Uhlenbeck、1900年~1988年)教授に師事した。ウーレンベックはオランダ出身の理論物理学者で、電子スピンの概念、ブラウン運動、統計力学、核物理学などで数々の貢献を行った研究者である。
王承書は1944年に、ミシガン大学から博士学位を取得し、そのまま同大学にポスドク研究員として勤務した。夫張文裕もその前年である1943年に、中国を離れて米国に滞在し、プリンストン高等研究所などに勤務していた。
王承書は、博士学位取得後も恩師であるウーレンベックと研究を進め、1951年に気体拡散輸送に関する理論をまとめて、王承書・ウーレンベック方程式を発表した。この方程式は多原子分子動力学の画期的な方程式として、現在も使われている。
中国への帰国
王承書と夫張文裕は、1956年に米国を離れ、中国北京に帰国した。二人が勤務したのは中国科学院物理研究所(後の原子能研究所)であり、王承書はそこの理論研究室の研究員となり、北京大学の教授を兼務した。
帰国して2年後の1958年に、中国科学院内で組織再編が行われて物理研究所は原子能研究所となり、王承書は同研究所の熱核融合研究室の研究員となった。
王承書は、翌1959年に3か月間ソ連に派遣されたが、ソ連から帰国直前に米国の制御核融合に関する教科書を手に入れた。王承書はこの教科書を、7日間要したソ連から中国に帰る列車の中で翻訳し、帰国後に「热核聚变导论(熱核融合入門)」と題する書籍として出版した。
この書籍は、その後の中国国内の核融合を研究する科学者に対して、大きな導きとなった。
両弾一星への貢献
王承書は1961年に、第二機械工業部の技術責任者(副部長)であった銭三強に呼び出された。銭三強は当時、中国の軍事プロジェクトである両弾一星政策で核兵器開発の責任者であった。
銭三強は王承書に対し、原子能研究所ウラン同位体分離研究室の副主任となり、原子爆弾の原料である濃縮ウラン製造に参加することを要請した。その上で王承書に対し、ウラン濃縮工場のあった中国西部への移転を命じ、また軍事機密保持のため研究論文などを公表しないように告げた。
王承書はこれを受け入れ、夫や子供と離れて大陸西部へ移動するとともに、学会活動などを完全に停止した。
中国が建設を進めていたのは、ガス拡散によるウラン濃縮工場であり、王承書は米国時代に培った気体拡散物理学などの知識を駆使して、工場の稼働準備を進めた。
王承書らの努力により、ウラン濃縮工場は1964年1月に稼働を開始し、同年10月に同工場で生産された濃縮ウランを原料とする原子爆弾が、新疆ウイグル自治区のロプノールで無事爆発に成功し、中国初めての核実験が成功した。
毛沢東主席が称賛
1966年10月、文化大革命が開始されて最初の建国記念日の式典が天安門で行われた。王承書は、国家に重要な貢献をした科学者として招待され、当時文革革命派の闘士として強大な影響力を持っていた聶元梓(じょうげんし)が王承書を「彼女は核兵器開発に大きな貢献をした女性である」と、毛沢東に紹介した。毛沢東は非常に喜び、「中国初の核爆発における女性功労者である(中国第一颗原子弹爆炸的女功臣)」と言ったという。
晩年
王承書は、その後第二機械工業部、核工業部などに勤務するとともに、清華大学などで教鞭をとった。
王承書は1980年に、中国科学院学部委員(現在の院士)に当選した。

王承書の夫である張文裕は、中国科学院高エネルギー物理研究所所長などを務め、「BEPC(Beijing Electron Positron Collider:北京電子・陽電子衝突型加速器)」の建設に尽力したが、1988年に死去した。
王承書は、夫の死から6年後の1994年に亡くなった。享年81歳であった。
参考資料
・科普中国HP 王承书:我国铀同位素分离事业理论奠基人
https://www.kepuchina.cn/person/jcrs/201805/t20180524_631375.shtml
・上観新聞HP 她放弃美国优厚待遇,30多年三改专业,只为祖国
https://www.jfdaily.com/wx/detail.do?id=627608
・観察者HP 这位女科学家为了中国的原子弹隐姓埋名三十年
https://www.guancha.cn/history/2017_11_01_433125.shtml