はじめに

 化学研究所 (Institute of Chemistry) は、北京市にある中国科学院の附属研究機関である。

 高分子科学、物理化学、有機化学、分析化学、無機化学などの研究開発を行っている。

 化学研究で国際的に高水準にある日本とも関係が深い。

 規模はそれほど大きくないが、研究開発力、研究成果などで、中国科学院内でトップレベルとなっている。

化学研究所の写真
化学研究所  同研究所HPより引用

1. 名称

○中国語表記:中国科学院化学研究所  略称 化学所 
○日本語表記:中国科学院化学研究所
○英語表記: Institute of Chemistry Chinese Academy of Sciences 略称 ICCAS

2. 所在地

 化学研究所本部の所在地は、北京市海淀区中关村北一街2号である。近くには、同じ中国科学院傘下の物理研究所、計算技術研究所、声学研究所、中国科学院大学などがある。また、中国の主力大学である北京大学や清華大学も、近辺にキャンパスを構えている。

3. 沿革

 化学研究所は、中国科学院発足後の1953年に、北京に総合的な化学研究機関として設立準備が開始され、1956年に正式に設置された。

 その後化学研究所から、1965年に「青海塩湖研究所(青海盐湖研究所)」が、1975年に「感光化学研究所(現在の理化技術研究所)」が、さらに同じく1975年に「環境化学研究所(現在の生態環境中心)」が独立した。また、成都有機化学研究所や上海有機化学研究所が発足する際には、化学研究所の一部が移管された。

 化学研究所をめぐる近年の大きな動きは、2018年に北京分子科学国家研究センター(後述)が、北京大学と共同で設置されたことである。

4. 組織の概要

(1)研究分野

 化学研究所の主な研究分野は、高分子科学、物理化学、有機化学、分析化学、無機化学であり、世界の科学技術の最前線に向き合い、多くの研究成果を達成してきた。
 近年は、化学と生命、材料、環境、エネルギー等の分野との横断研究を積極的に実施し、分子・ナノサイエンスフロンティア、有機高分子材料、化学・ライフサイエンス、エネルギー・グリーンケミストリー等の分野で新たなブレークスルーを目指している。

(2)研究組織

①国家級の研究室・実験室

・北京分子科学国家研究センター(北京大学と共管、後述)
・分子反応動力学国家重点実験室(大連化学物理研究所と共管、後述)
・分子動態・定常状態構造国家重点実験室(北京大学と共管、後述)
・高分子物理・化学国家重点実験室(長春応用化学研究所と共管、後述)

②中国科学院級研究室・実験室

・有機固体院重点実験室
・光化学院重点実験室
・分子ナノ構造・ナノ技術院重点実験室
・コロイド界面・化学熱力学院重点実験室
・工程塑料院重点実験室
・分子識別・功能院重点実験室
・活体分析化学院重点実験室
・グリーン印刷院重点実験室
・極限環境高分子材料院重点実験室

(3)研究所の幹部

 研究所の幹部は、所長、中国共産党委員会(党委)書記、副所長、副書記である。大学などでは、党委書記の方が学長より強い権限を有しているが、中国科学院の付属研究所の場合には所長が最高責任者の場合が多い。

①王樹・所長

 王樹(王树)所長は河北省生まれである。1994年に河北大学化学科で学士の学位を、1999年に北京大学で化学・分子工学で博士の学位を取得し、中国科学院化学研究所でポスドク研究を行った。2001年から3年間、米国カリフォルニア大学サンタバーバラ校でポスドク研究を行った後、化学研究所に戻り、研究員となった。2023年から化学研究所の所長を務めている。専門は高分子設計、生物電子化学などの研究である。

②范青華・党委書記兼副所長

 范青華(范青华)党委書記は、副所長も兼務しており、化学研究所のナンバーツゥーである。范青華は、1966年に湖南省で生まれ、1992年に化学研究所で修士の学位を取得し、同研究所の研究員となった。2015年に同研究所の党委副書記兼副所長となり、現在は党委書記、副所長、兼分子識別・功能重点実験室主任である。専門分野は、キラル触媒合成とその応用である。

5. 研究所の規模

(1)職員数

 2021年現在の職員総数は458名で、中国科学院の中では30位以内に入っていない。(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。458名の内訳は、研究職員が415名(90%)、技術職員(中国語で工員)が12名(3%)、事務職員が31名(7%)である。
 ただし、化学研究所の中にある北京分子科学国家研究センター(後述、約500名)の職員は、上記にカウントされていないと考えられ、これを合わせると大きな職員数となる。

(2)予算

 2021年予算額は9億0,710万元で、中国科学院の中では第28位に位置する(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。9億0,710万元の内訳は、政府の交付金が4億1,531万元(46%)、NSFCや研究プロジェクト資金が2億7,067万元(30%)、技術収入が7,966万元(9%)、試作品製作収入が1億0,878万元(12%)、その他が3,268万元(3%)となっている。

(3)研究生

 2021年現在の在所研究生総数は1,125名で、中国科学院の中では第6位に位置する(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。1,125名の内訳は、修士課程の学生が342名、博士課程の学生が783名である。
 この大学院生も、化学研究所の中にある北京分子科学国家研究センター(後述、1,846名)の研究生はカウントされていない。

6. 研究開発力

(1)国家級実験室など

 中国政府は、国内にある大学や研究所を世界レベルの研究室とする施策を講じている。この施策の中で最も重要と考えられる国家研究センターと国家重点実験室であり、中国科学院の多くの研究機関に設置されている(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。
 上記組織の項でも述べたが、化学研究所は1つの国家研究センターと3つの国家重点実験室を有している。いずれも、他組織との共同管理である。

北京分子科学国家研究センター(北京分子科学国家研究中心):同センターは、2017年に国から認可された6つの国家研究センターの一つであり、北京大学との共管である。分子の精密な合成と製造、分子構造の制御可能性、分子機能の構築・応用をめざし、分子科学の基礎、分子科学と材料、生命科学や持続可能な発展への分子科学の発展を研究する。2021年現在で、正規研究員が490名、客員研究員が425名、研究生・博士課程1,846名、ポスドク254名である。

分子反応動力学国家重点実験室(分子反应动力学国家重点实验室):1987年に国の認可を受け、1990年から研究を開始した。大連化学物理研究所との共管実験室である。化学反応速度論の最新の実験的および理論的手法を用い、原子および分子レベルでの化学反応、複雑な分子反応および関連プロセスの動力学を研究する。2021年現在で双方の研究所に、正規研究員が83名、客員研究員が130名、研究生としてポスドク40名、博士学生62名、修士学生38名がいる。

分子動態・定常状態構造国家重点実験室(分子动态与稳态结构国家重点实验室):1987年に国家の認可を受け、1991年から研究を開始した。北京大学との共管実験室である。複雑系での分子動力学と動的構造化学を研究する。現在、化学研究所側には29名の職員と9名の博士領導がいる。

高分子物理・化学国家重点実験室(高分子物理与化学国家重点实验室):前身は1989年に中国科学院の重点実験室として設置された。2001年に国家重点実験室に格上げされた。長春応用化学研究所との共管実験室である。高分子科学と材料科学、情報科学、生命科学、環境科学などの境界分野の研究を行っている。2021年現在で双方の研究所に、正規研究員が175名、客員研究員が165名、研究生としてポスドク8名、博士学生186名、修士学生158名がいる。

(2)大型研究開発施設

 中国科学院は、同院や他の研究機関の研究者の利用に供するため大型の研究開発施設を有している。大型共用施設は、専用研究施設、共用実験施設、公益科学技術施設の3つのカテゴリーがある(中国科学院内の設置状況詳細はこちら参照)。
 化学研究所には、大型共用施設・共用実験施設はない。

(3)NSFC面上項目獲得額

 国家自然科学基金委員会(NSFC)の一般プログラム(面上項目、general program)は、日本の科研費に近く主として基礎研究分野に配分されており、中国の研究者にとって大変有用である。化学研究所のNSFCの獲得資金額は大きくなく、中国科学院の中では20位以内に入っていない。(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。

7. 研究成果

(1)Nature Index

 科学雑誌のNatureは、自然科学系のトップランクの学術誌に掲載された論文を研究機関別にカウントしたNature Indexを公表している。Nature Index2022によれば、化学研究所は中国科学院内で第2位であり、論文数であるカウントで526、貢献度を考慮したシェアで121.96となっている(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。
 このNature Index に関し、中国の主要大学のそれと比べると高くない。中国の主要大学のNature Indexによるランキングは、こちらを参照されたい。

(2)SCI論文

 上記のNature Indexはトップレベルの論文での比較であり、より多くの論文での比較も重要である。しかし、中国科学院は各研究所ごとの論文数比較を出来るだけ避け、中国科学院全体での比較を推奨している。このため、SCI論文などで研究所ごとの比較一覧はない。

 ただ、研究所によっては自らがどの程度SCI論文を作成しているかを発表している。
 化学研究所もその一つであり、2021 年に合計650 件のSCI論文を発表し、そのうち207件が一流誌に掲載された。
 なお、年間で650 件という数字を中国の主要大学のそれと比較すると、清華大学、北京大学、上海交通大学などが年間で、SCI論文を約10,000件前後発表している(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。したがって中国の主要大学と比較すると、それほど大きなものではない。

(3)特許出願数

 2021年の化学研究所の特許出願数は351件で、中国科学院内で第15位である(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。

(4)成果の移転収入

 2021年の化学研究所の研究成果の移転収入は228.58億元であり、中国科学院内で第5位である(他の研究所との比較の詳細はこちら参照)。

(5)両院院士数

 中国の研究者にとって、中国科学院の院士あるいは中国工程院の院士となることは生涯をかけての夢となっている。2024年9月時点で化学研究所に所属する両院の院士は12名であり、中国科学院内で第5位である(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。

○中国科学院院士(12名):朱起鹤、朱道本、白春礼(後述)、佟振合、姚建年、万立骏、江雷、赵进才、李永舫、韩布兴、刘云圻、李玉良。

8. 特記事項

(1)関連する著名な科学者

① 白春礼

 化学研究所の代表的な研究者は、第六代中国科学院院長を務めた白春礼である。

 白春礼は、1953年に遼寧省で生まれ、1978年に北京大学化学科を卒業した。
 中国科学院長春応用化学研究所に勤務の後、北京の化学研究所に移動し博士号を取得している。1985年に米国カリフォルニア工科大学にポスドク研究員として派遣され、STM(走査型トンネル顕微鏡)の研究に従事した。1987年に再び化学研究所に戻りSTM実験室の主任となっている。1991年から約1年半にわたり、日本の東北大学金属材料研究所の客員研究員を勤めた。
 日本から帰国後の1992年には、39歳という若さで化学研究所の副所長となり、さらに1996年には中国科学院副院長に昇格した。1997年には中国科学院の院士に当選し、2004年には中国科学院全体のナンバーツーである常務副院長に昇格し、2011年に路甬祥第5代院長の後をついで中国科学院の院長に就任した。2020年に院長を退任した。 

白春礼第6代院長
白春礼前中国科学院院長 百度HPより引用

② 万立駿(万立骏)

 万立駿(万立骏)も、化学研究所出身の著名な科学者である。

 万立駿は1957年に遼寧省大連に生まれ、1987年に大連理工大学修士課程を卒業し大連で教職に就いた後、1992年に日本の東北大学に留学し1996年に博士号を取得している。
 その後、現在の科学技術振興機構(JST)の前身である科学技術振興事業団の研究員や北海道大学、東北大学での勤務の後、百人計画に当選して1999年に中国に帰国し化学研究所の研究員となった。2004年には化学研究所所長、2009年には中国科学院院士になり、2015年から2017年まで中国科学技術大学の学長を勤めた。
専門は顕微鏡下での探針を用いたナノテク材料の化学的な研究である。高性能のナノテク材料の開発やリチウム電池の開発への貢献が期待されている。

 現在は、中華全国帰国華僑連合会(中华全国归国华侨联合会、中国侨联と略称)の主席として、社会的、政治的な活動を行っている。 

万立駿の写真
万立駿  百度HPより引用

(2)深い日本との関係

 化学研究所は、日本と深いつながりを有している。

 化学研究所には、日本の大学と同様に名誉教授という職が設置されている。この名誉教授には、次の日本人研究者が就任している。
・土田英俊(Eishun Tsuchida、早稲田大学、故人)
・中条利一郎(Chujo Riichiro、東京工業大学)
・井口洋夫(Hiroo Inokuchi 、分子科学研究所、故人)
・板谷謹悟(Kingo Itaya、東北大学)
・藤島 昭(Akira Fujishima、東京大学)
・野依良治(Akira Fujishima、名古屋大学)

 また、化学研究所には、日本に留学した研究者も多い。中国科学院の院士でみると次の通りである。
・白春礼(前中国科学院院長、前述)東北大学
・万立駿(万立骏、前中国科学技術大学学長、前述)東北大学
・姚建年(元国家自然科学基金委員会副主任)東京大学
・江 雷(北京航空航天大学化学・環境学院院長)東京大学
・趙進才(赵进才、中国科学院光化学重点实验室副主任)明星大学
・李永舫(現化学研究所研究員)分子化学研究所
・劉雲圻(刘云圻、現化学研究所研究員)理化学研究所、東京工業大学、京都大学 

(3)中国科学院内における他の化学関連研究機関

 化学は、数学、物理学、生物学などと並び基礎科学の根幹をなす研究分野である。

 このため下記の通り、中国科学院の傘下の研究機関名に「化学」が入っているものや、「化学」が入っていないが物理学に深く関係している研究所が多い。黒字のゴシック体となっているのは、このHPで取り上げる予定の研究機関である。青字のゴシック体は既に取り上げた機関である。

○化学研究所以外で、機関名に「化学」が入っている機関
大連化学物理研究所(大连化学物理研究所)
長春応用化学研究所(长春应用化学研究所)
・上海有機化学研究所(上海有机化学研究所)
・広州地球化学研究所(广州地球化学研究所)
・地球化学研究所(貴州省)
・山西石炭化学研究所(山西煤炭化学研究所)
・蘭州化学物理研究所(兰州化学物理研究所)

○機関名に「化学」が入っていないが、化学に深く関係する機関
上海珪酸塩研究所(上海硅酸盐研究所)
・国家ナノテク科学センター(国家纳米科学中心)
福建物質構造研究所(福建物质结构研究所) 
合肥物質科学研究院(合肥物质科学研究院)

参考資料

・中国科学院化学研究所HP https://ic.cas.cn/