はじめに

・大連化学物理研究所は、遼寧省大連市にある中国科学院の附属研究機関である。
・歴史は古く、旧満鉄の中央試験所を母体とする。
・触媒化学、化学工学、化学レーザー、分子反応力学などの研究開発を行っている。
・規模、研究開発力、研究成果などで、中国科学院内のトップレベルとなっている。

大連化学物理研究所の写真
大連化学物理研究所の建物

1. 名称

○中国語表記:大连化学物理研究所  略称 大连化物所
○日本語表記:大連化学物理研究所
○英語表記:Dalian Institute of Chemical Physics  略称 DICP

2. 所在地

 大連化学物理研究所本部の所在地は、遼寧省(辽宁省)大連市(大连市)沙河口区中山路457号である。

 大連市は、中国東北部遼東半島の最南端にあり、東は黄海、西は渤海、南は山東半島と海を隔てて向い合い、北には広大な東北部の平野が広がっている。
 大連の名称は、日清戦争後の三国干渉を経て大連のある遼東半島先端部を租借する権利を得たロシアが名づけた「ダルニー:ロシア語で遠い」に由来する。ロシアは、ここに東清鉄道を建設してシベリア鉄道と連絡させ、港の整備を開始し、郊外の旅順に要塞を建設した。
 日露戦争で日本が勝利し、ポーツマス条約により遼東半島先端部の租借権は日本に移った。日本はロシアが進めた鉄道整備と周辺の都市整備を引き継いだが、その実施主体が南満州鉄道株式会社(満鉄)であり、ターミナルと本社が置かれたのが大連だった。

ヤマトホテルの写真
大連中山広場にある大連賓館
(満鉄が経営していた旧ヤマトホテル)

 1945年に、日ソ中立条約破棄によりソ連が対日参戦し、大連を占拠した。戦争終結後も、ソ連は大連港を旅順港や南満洲鉄道を管理下においた。中華人民共和国が成立した2年後の1951年に、ソ連はこれらを新中国に返還した。
 その後大連は、鄧小平の改革開放政策などにより東北地方の重要都市として発展し、現在は人口約600万人の大都会となっている。 

3. 沿革

(1)満鉄中央試験所が母体

 大連化学物理研究所の母体は、日本の満鉄中央試験所である。

 この中央試験所は、満州の政務を管掌し満鉄の監督に当たった関東都督府の中に、満州における殖産興業および衛生上の試験研究を目的として、1907年に設置された。翌1908年に中央試験所は業務を開始したが、分析や鑑定業務を技術者2人で行う小さな組織であった。

 同中央試験所は、1909年に関東都督府から満鉄に移管され、以降単なる分析機関から応用化学、製糸、窯業、醸造などに関する研究開発を担う研究所となった。最盛期には科学・技術各分野のエキスパート約600人が在籍し、アルコールの開発や大豆油の抽出、オイルシェールの開発、石炭の液化など、様々な研究開発が行われた。作家の夏目漱石や、初代総理大臣の伊藤博文も、この研究所を訪問している。

旧満鉄中央試験所の建物 HBD in Liaodong Peninsulaより引用

(2)中国科学院の付属研究所に

 日本の敗戦に伴い、旧満州地域はソ連の支配するところとなり、旧満鉄の資産や鉄道を運営する中国長春鉄路(略称:中長鉄路)がソ連と中国によって設立され、中央試験所も移管されて「中長鉄路大連科学研究所」となった。

 その後、大連大学や中国共産党東北人民政府に所管替えとなった後、1952年に中国科学院の附属研究機関となった。名称は、「中国科学院工業化学研究所」であった。

 1954年に「中国科学院石油研究所」と改名し、1958年に甘粛省蘭州に「中国科学院石油研究所蘭州分所(現在の中国科学院蘭州化学物理研究所)」を、1961年に山西省太原に「中国科学院煤炭化学研究所」を、それぞれ分所として設立した。1961年10月、中国科学院化学物理研究所と改名した。

 文化大革命中の1968年1月、中国科学院から離れて、人民解放軍国防科学委員会の第16研究院となったが、1970年に再び中国科学院に復帰して、現在の名称である「中国科学院大連化学物理研究所」となった。これが現在に続いている。

 1995年には研究所の本部が、大連市中心部で人民広場に近い一二九街にあった旧満鉄の中央試験所の建物から、星海広場の西に位置する新しい建物に移転した。星海広場は、元々は星海湾という湾であったが、大連市の100年記念として埋め立てられた場所である。

4. 組織の概要

(1)研究分野

 大連化学物理研究所は、触媒化学、化学工学、化学レーザー、分子反応力学、有機化学、現代分析化学、バイオテクノロジーなどの研究開発を行っている。
 また近年では、化石エネルギーの最適利用、高効率化学エネルギー変換、再生可能エネルギーなど、持続可能でクリーンなエネルギーに関連する課題にも取り組んでいる。

(2)研究組織

①国家級の研究室・実験室

・触媒基礎国家重点実験室(後述)
・分子反応動力学国家重点実験室(後述)
・エネルギー触媒変換全国重点実験室
・低炭素触媒技術国家工学研究センター
・膜技術国家工学研究センター
・燃料電池・水素エネルギー国家工学研究センター
・国家触媒工学技術研究センター
・国家エネルギー低炭素触媒工学研究開発センター

②中国科学院級研究室・実験室

・中国科学院化学レーザー重点実験室
・中国科学院分離分析化学重点実験室
・中国科学院燃料電池及び複合電気エネルギー重点実験室
・中国科学院宇宙触媒材料重点実験室
・中国科学院電気化学エネルギー貯蔵技術重点実験室

③研究所級研究室・実験室(一部のみ)

・機器分析化学研究室
・ファインケミカル研究室
・化学反応速度論研究室
・触媒・新材料研究室
・バイオテクノロジー研究部門
・大連光源研究所
・マテリアメディカ物理科学研究部門
・バイオエネルギー研究部門
・省エネルギー・環境研究部門
・太陽エネルギー研究部門など。

(3)研究所の幹部

 研究所の幹部は、所長、中国共産党委員会(党委)書記、副所長、副書記である。大学などでは、党委書記の方が学長より強い権限を有しているが、中国科学院の附属研究機関の場合には所長が最高責任者の場合が多い。

①劉忠民・所長

 劉忠民・大連化学物理研究所所長は、1964年に河南省で生まれ、1983年に鄭州大学化学科で学士の学位を、1986年に大連化学物理研究所で修士の学位を、1990年にやはり大連化学物理研究所で博士の学位をそれぞれ取得し、それ以降一貫して大連化学物理研究所で研究活動を行っている。1996年には、フランスの科学研究センターCNRS418に8か月間留学した。2007年に副所長となり、2017年から所長を務めている。専門は応用触媒研究で、2015年に中国工程院の院士に当選している。

②金玉奇・党委書記兼副所長

 金玉奇・党委書記は、副所長も兼務しており、大連化学物理研究所のナンバーツゥーである。金玉奇は、1965年に遼寧省大連で生まれ、1988年に天津大学物理学科で学士の学位を取得、1994年から大連化学物理研究所に勤務している。2007年に同研究所の党委委員兼所長補佐となり、2017年に副所長、2021年に党委書記となった。専門分野は、レーザー理論と応用である。

5. 研究所の規模

 大連化学物理研究所は、多数ある中国科学院附属の研究機関の中でも、かなり規模の大きい機関である。

(1)職員数

 2021年現在の職員総数は1,577名で、中国科学院の中では第5位に位置する(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。1,577名の内訳は、研究職員が1,439名(91%)、技術職員(中国語で工員)が96名(6%)、事務職員が42名(3%)である。

(2)予算

 2021年予算額は19億0,088万元で、中国科学院の中では第8位に位置する(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。19億0,088万元の内訳は、政府の交付金が6億5,421万元(34%)、NSFCや研究プロジェクト資金が5億6,361万元(30%)、技術収入が3億6,026万元(19%)、試作品製作収入が1億9,555万元(10%)、その他が1億2,725万元(7%)となっている。

(3)研究生

2021年現在の在所研究生総数は1,078名で、中国科学院の中では第9位に位置する(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。1,078名の内訳は、修士課程の学生が398名、博士課程の学生が680名である。

6. 研究開発力

(1)国家級実験室など

 中国政府は、国内にある大学や研究所を世界レベルの研究室とする施策を講じている。この施策の中で最も重要と考えられる国家研究センターと国家重点実験室であり、中国科学院の多くの附属研究機関に設置されている(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。

 上記組織の項でも触れたが、大連化学物理研究所は、次の2つの国家重点実験室を有している。

触媒基礎国家重点実験室(催化基础国家重点实验室):1984年に国務院の認可を受け、1987年から研究を開始した。新しい触媒反応、新しい触媒材料、新しい触媒特性評価技術の研究に焦点を当て、エネルギー、環境、ファインケミカル合成などの分野における触媒研究を行っている。
 2021年現在で、正規研究員が130名、客員研究員が116名、研究生としてポスドク84名、博士学生162名、修士学生76名である。

分子反応動力学国家重点実験室(分子反应动力学国家重点实验室):1987年に国務院の認可を受け、1990年から研究を開始した。化学反応速度論の最新の実験的および理論的手法を用い、原子および分子レベルでの化学反応、複雑な分子反応および関連プロセスの動力学を研究する。
 2021年現在で、正規研究員が83名、客員研究員が130名、研究生としてポスドク40名、博士学生62名、修士学生38名である。

(2)大型研究開発施設

 中国科学院は、同院や他の研究機関の研究者の利用に供するため大型の研究開発施設を有している。大型共用施設は、専用研究施設、共用実験施設、公益科学技術施設の3つのカテゴリーがある(中国科学院内の設置状況詳細はこちら参照)。

 大連化学物理研究所は、この大型共用施設・共用実験施設として「大連コヒーレント光源(大连相干光源)」を設置・運営している。大連コヒーレント光源は、中国初の大規模自由電子レーザー装置であり、極紫外線帯域で作動する世界で唯一の自由電子レーザー装置である。 2018年から運用が開始されている。

大連化学物理研究所が運用する大連コヒーレント光源の写真
大連化学物理研究所が運用する大連コヒーレント光源の建物 中国科学院のHPより引用

(3)NSFC面上項目獲得額

 国家自然科学基金委員会(NSFC)の一般プログラム(面上項目、general program)は、日本の科研費に近く主として基礎研究分野に配分されており、中国の研究者にとって大変有用である。大連化学物理研究所のNSFCの獲得資金額は、2021年2,374万元(件数は37件)であり、中国科学院の中では第7位に位置する(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。

7. 研究成果

 大連化学物理研究所は、論文や特許で中国科学院附属研究機関としてトップクラスに位置している。ただ、北京大学や清華大学などの国内主要大学と比較すると、かなり差がある。

(1)Nature Index

 科学雑誌のNatureは、自然科学系のトップランクの学術誌に掲載された論文を研究機関別にカウントしたNature Indexを公表している。Nature Index2022によれば、大連化学物理研究所は中国科学院内第1位であり、論文数で147.97となっている(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。
 なお、このNature Index に関して、例えば中国大学トップの中国科学院大学は論文数で530.20であり、第2位の中国科学技術大学は502.50である。従って、大連化学物理研究所のNature Index は、中国科学院内の附属研究機関でトップではあるが、大学のそれと比べると高くない。中国の主要大学のNature Indexによるランキングは、こちらを参照されたい。

(2)SCI論文

 上記のNature Indexはトップレベルの論文での比較であり、例えばSCI論文などより多くの論文での比較も重要である。しかし、中国科学院は各研究機関ごとの論文数比較を避けており、中国科学院全体での比較を推奨している。このため、SCI論文などで研究所ごとの比較一覧はない。

 ただ研究機関によっては、自らがどの程度SCI論文を作成しているか発表している。
 大連化学物理研究所もその一つであり、同研究所HPによれば、2013 年から2022 年までに合計11,855 件のSCI論文を発表し、そのうち2,576件がScience、Nature、JACSなどの一流誌に掲載された。また、2022年までの5年間の年間SCI論文数とその引用数が下記のグラフで示されている。

大連化学物理研究所の近年のSCI論文数と引用数のグラフ
大連化学物理研究所の近年のSCI論文数と引用数 同研究所のHPより引用


 なお、10年間で11,855 件という数字を中国の主要大学のそれと比較すると、清華大学、北京大学、上海交通大学などが同じ期間で、SCI論文を約100,000件前後発表している(詳細はこちら参照)。したがって中国の主要大学と比較すると、それほど大きなものではない。

(3)特許出願数

 2021年の大連化学物理研究所の特許出願数は1,404件で、中国科学院内で第2位である(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。

(4)成果の移転収入

 2021年の大連化学物理研究所の研究成果の移転収入は528.24億元であり、中国科学院内で第1位である(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。

(5)両院院士数

 中国の研究者にとって、中国科学院の院士あるいは中国工程院の院士となることは生涯をかけての夢となっている。2024年2月時点で大連化学物理研究所に所属する両院(中国科学院と中国工程院)の院士は13名であり、中国科学院内で第4位である(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。

○中国科学院院士(9名):张存浩(後述)、何国钟、袁权、沙国河、张玉奎、李灿、包信和(後述)、杨学明(後述)、张涛、张东辉。
○中国工程院院士(4名):杨胜利、衣宝廉、桑凤亭、刘中民。

8. 特記事項

(1)著名な研究者

①張存浩(张存浩)

張存浩の写真
張存浩 百度HPより引用

 張存浩は、中国の化学レーザー研究の基礎を築き、2013年には国家最高科学技術賞(日本の文化勲章に相当)を受賞している。

 張存浩は、1928年に天津で生まれ、日中戦争中の1942年に厦門大学に入学し、1947年に南京中央大学を卒業した。その後米国に留学し、ミシガン大学で修士の学位を取得した後、1950年に中国に戻った。

 初めはロケットの推進薬の開発に従事した後、1970年頃から化学レーザーの研究に転向した。張存浩は1980年代に、フッ化窒素の2つの電子励起状態を調製して可視光化学レーザーを作り出し、さらに放電開始型パルスフッ素ヨウ素化学レーザーを開発した。

 張存浩は1986 年から 1990 年まで、中国科学院大連化学物理研究所の所長を務めた。

②包信和

包信和の写真
包信和 百度HPより引用

 包信和は、1959年に江蘇省に生まれ、復旦大学で理学博士の学位を取得後、1989年にドイツ・マックスプランク協会のフリッツハーバー研究所の研究員となった。その後1995年に帰国して大連化学物理研究所に勤務し、2000年に同研究所の所長となった。現在は、中国科学院が所管する中国科学技術大学の学長を務めている。

 なお包信和は、2020年に国家自然科学賞一等賞を筆頭者として受賞しており、このHP内の「国内で評価の高い研究者」の一人として紹介する予定である。

③楊学明

楊学明の写真
楊学明 百度HPより引用

 楊学明(杨学明)は、1962年に浙江省に生まれ、1982 年に浙江師範大学物理学科で学士号を、1986年に中国科学院大連化学物理研究所で修士号を、1991年にカリフォルニア大学サンタバーバラ校でPhDを取得している。その後、米国や台湾で研究を進めた後、2001年に大陸に戻って大連化学物理研究所の研究員となった。2012年には同研究所の副所長となり、2017年からは南方科技大学に移っている。

 なお楊学明も、2022年に未来科学大賞物質科学賞を受賞しており、このHP内の「国内で評価の高い研究者」の一人として紹介する予定である。

(2)向坊東大元総長

 2002年に亡くなられた向坊隆元東京大学総長は、戦前の満州大連出身である。向坊先生は、1917年に満鉄職員の子息として大連に生まれ、旧制中学校3年生までおられた。
 本HPの筆者である林は、東大工学部原子力工学科の卒論と修士課程時代に向坊研に所属し、向坊先生の薫陶を受けた。また、卒業して科学技術庁へ入ってからも、原子力委員長代理となられた向坊先生にお仕えした。さらに長男の隆一君は、林と同い年で共に原子力研究開発に携わったが、残念ながら若くして亡くなった。
 向坊先生は、よく周りに人を集めて説話的なお話しをされることがあったが、生まれ故郷の大連について「大連は三方を海に囲まれ、そう高くはないが山もあり、アカシアやポプラで代表される並木の整った美しい街であった(文藝春秋第56巻11号「私の大連」より引用)」と言った趣旨のお話しを、懐かしそうにされていた。
 向坊先生は東大総長の時代の1979年に、中国科学院の招待で大連(当時は旅大市)を約40年ぶりに訪問された。以降亡くなる直前まで度々訪問されて大連にある大学や研究所を訪れ、学生や若手研究者と交流されていた。

向坊研風景の写真
向坊研の風景(1974年3月) 左端が向坊隆元東大総長、右は高橋洋一元東大教授、
その右は山内繁元国立身体障害者リハビリテーションセンター研究所長  「学長の平日と休日」より引用

 残念ながら、向坊先生と林が写っている写真は持ち合わせていないので、先生の著書である「学長の平日と休日」にあった「研究室での討論(1974年3月)」という写真を掲載する。私の指導教官であった高橋洋一先生も同時に写っている。
 林が中国に関心を持ち、中国の科学技術を追いかけているのは、向坊先生に薫陶を受けたことが理由の一つと考えている。

参考資料

・杉田望「満鉄中央試験所―大陸に夢を賭けた男たち」 1990年 講談社 https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000174641
・旧満鉄中央試験所-満鉄の研究拠点 https://blog.goo.ne.jp/hmb09/e/8e9d39cd0d57bbdd9b307172bbfd2190
・大連化学物理研究所HP https://dicp.cas.cn/
・中国科学院統計年鑑2022 中国科学院発展企画局編
・中国科学院年鑑2022 中国科学院科学伝播局編
・中国科学院HP  大连相干光源 https://lssf.cas.cn/ff8080816b553e09016b6311351f0f9a.html
・向坊隆 「学長の平日と休日」1982年 東京大学出版会 https://www.utp.or.jp/book/b298344.html