はじめに
周恩来(1898年~1976年)は、中華人民共和国の偉大な政治家の一人であり、建国以来死去するまで国務院総理として外交を含めた中国全体の行政を取り仕切ったが、科学技術の振興にも偉大な足跡を残している。
生い立ちと政治家としての生涯
周恩来は、1898年に江蘇省の淮南市に生まれた。辛亥革命後の1913年に天津の南開中学に入学し、1917年に同校を卒業して日本に留学した。東京で日本語を学習したが、母校の南開中学が大学部を設置すると聞き、1919年に天津に戻って新設の南開大学に入学した。
帰国直後に北京で五・四運動が起き、周恩来は同運動のリーダーとなり頭角を表したが、翌年逮捕された。周恩来は釈放後、フランスのパリに渡った。パリでは中国共産党フランス支部を組織し、ヨーロッパ総支部が作られるとその書記となった。
1924年に周恩来は帰国し、孫文が創立し蒋介石が校長を務める黄埔軍官学校の政治部副主任となった。1937年に日中戦争が始まると、周恩来は共産党の代表として重慶に駐在し、蒋介石との統一戦線の維持に努めた。
1949年、国共内戦に勝利した共産党が中華人民共和国を建国すると、蒋介石は毛沢東主席を補佐する政務院(後の国務院)総理として、新中国の行政全般を取り仕切った。
1958年の大躍進政策の失敗により大量の餓死者を出したことから、劉少奇、鄧小平らが経済調整を行うが、これに対抗するため1966年に毛沢東は文化大革命を発動させた。周恩来は毛沢東に忠実に従い、革命派と行動をともにしつつも、紅衛兵などの極端な暴虐を抑える役割を果たした。1971年に林彪事件が発生し、これが契機となって鄧小平が復権し、一部幹部の名誉が回復された。周恩来は、鄧小平と協力して文革の混乱を収拾しようとした。しかしその後も、周恩来は江青ら四人組との激しい権力闘争を強いられた。
1972年に膀胱がんが発見されるも、休むことなく職務を続けた。1974年6月に病院に入院し、病室でなおも執務を続けたが、ついに1976年1月、周恩来は死去した。享年77歳であった。遺骸は本人の希望により火葬され、遺骨は飛行機で中国の大地に散布された。
四つの近代化の提唱
さて、周恩来が科学技術発展に貢献した点であるが、最も重要なのは「四つの近代化(四个现代化)」を提唱したことである。
最初に四つの近代化が言及されたのは、中華人民共和国建国直前である。1949年9月、中国人民政治協議会議の第1回総会において、新中国の暫定憲法の役割を果たす「共同綱領」が採択された。この共同綱領第43条に、「工業、農業と国防の建設に役立つ自然科学の発展に努める。科学の発見と発明を奨励し、科学的知識を普及させる」と規定されており、これが四つの近代化の原型となった。
周恩来が最初に四つの近代化に言及するのは、新中国建国後の1954年に開催された全国人民代表大会であり、国務院総理として政府活動報告を行い、経済の後進性と貧困を排除し革命を達成させるために、「工業、農業、交通輸送業、国防に関する四つの近代化」を提唱した。また1958年に開催された中国共産党の宣伝工作会議で、「産業、農業と科学・文化の近代化」を提唱した。しかしこれらの提案は、大躍進政策などの政治的経済的な混迷のため実施されることはなかった。
大躍進政策の失敗後、劉少奇や鄧小平が政治的経済的な調整を進め、1964年に開催された全国人民代表大会で、周恩来は国務院総理として政府活動報告を行い、「農業、産業、国防、科学技術の近代化を完全に実現し、中国の経済を世界の先頭に立たせ、強力な社会主義国を構築する」という四つの近代化路線を再度主張した。しかしこの場合も、1966年から開始された文化大革命の影響を受けて、実施されることはなかった。
文革中の林彪事件後、鄧小平を復活させるなど政治的な基盤を強化した周恩来は、1975年の全国人民代表大会で政府活動報告を行い、「今世紀内に農業、工業、国防、科学技術の全面的な近代化を実現し、中国の国民経済を世界の前列に立たせる」と提唱した。しかしこれも、四人組の反撃により実施されることはなかった。
すでに述べたように、周恩来は1976年1月に死去する。そして、周恩来が訴え続けた四つの近代化を、政策として実施したのは鄧小平であった。
革命思想で軽視されがちであった科学と科学者を護り抜く
周恩来の科学技術へのもう一つの重要な貢献が、革命派に根強く存在した「知識人蔑視」による迫害から、科学者を護ったことである。
毛沢東率いる中国共産党支配の新中国では、建国当初から科学やそれを支える研究者・科学者などの知識人を重視せず、むしろ邪魔者扱いすることが多かった。そして、社会が混乱すると科学が軽視され、知識人が弾劾されることが繰り返された。
特に激しかったのは、「百花斉放百家争鳴」の混乱後の反右派闘争と、大躍進政策の混乱後の文化大革命である。双方とも、革命の主体は農民と労働者であり、科学を振り回す知識人は地主や資本家などと共に打倒すべき対象とされた。要領良く立ち回り被害を最小限にとどめた知識人もいたが、実直であり融通の利かない知識人は革命派(特に文革時代の紅衛兵など)の迫害の対象となり、命を落としたり身体や心に傷害を受けたりしたものが多く出ている。
周恩来は、若くして革命運動に身を投じたため必ずしも知識人に分類されないが、日本とフランスに留学経験があるからであろう、科学や知識人に深い敬愛の心を有していたと考えられる。また周恩来は、後に述べる鄧小平と同様に極めて合理的・実利的な人物であり、科学の発展や知識人の協力なしに経済や国防の進展が望めないことを肌で感じていたとも思われる。
周恩来の力が発揮されたのが、文化大革命中の知識人保護である。この時期の中国全体の大きな政策目標は、核兵器・ミサイルと人工衛星を開発する両弾一星政策を完成させることにより米国やソ連に対抗することであったが、その両弾一星政策ですら革命派の批判対象となった。そこで周恩来は、両弾一星政策を担当する研究所の人員や資材を、革命派の比較的手が出しにくい人民解放軍に移転させた。
また両弾一星政策に関係のない知識人についても、紅衛兵らの暴力から守るため、文革初期の1966年8月に「保護すべき幹部リスト」を作成し、毛沢東の同意を得て保護に努めた。
しかし、周恩来の努力もむなしく、自殺したり傷ついたりした知識人や、下放による強制労働についた知識人もいた。また知識人ではないが、周恩来の養女で女優の孫維世は、毛沢東の妻で四人組の一人江青の激しい憎悪の対象となり、北京獄中で拷問を受けて死亡している。
周恩来と松村謙三
戦後、日中間で国交の無い時代に、日本側で国交回復に尽力した政治家に松村謙三元文部大臣・衆議院議員がいる。松村先生は戦争前ほとんど中国には縁がなかったが、戦後の1959年に周恩来首相の招きにより第1回目の訪中を果たし、その後5度にわたって訪中し、覚書貿易促進などにより国交回復を目指したが、残念ながら国交回復前年の1971年に亡くなっている。
松村先生は筆者の郷里である富山県福光町(現南砺市)の大先輩であり、亡くなる前に一度だけお会いしたことがある。
松村先生が亡くなって12年が経過した1983年に、福光町と周恩来の原籍(祖先の地)である浙江省紹興が友好都市となった。紹興は、紹興酒や魯迅の生家で有名な地であり、人口は約500万人と大都会である。一方の福光町は人口約3万人の小さな町である。友好都市は、松村謙三の遺徳と私は考えている。
参考資料
・矢吹晋「毛沢東と周恩来」 講談社現代新書、1991年
・高橋強、川崎高志「周恩来-人民の宰相」 第三文明社、2019年
・人民中国HP 「周恩来総理と中日関係(中)生誕110周年にあたって」
http://www.peoplechina.com.cn/zhongrijiaoliu/2008-02/15/content_99498_2.htm