建国期の科学技術政策

 建国期の科学技術政策は、日中戦争や国共内戦での破壊と混乱を経て、経済を発展させて国力を増強させることを主眼としたものであった。建国期の科学技術政策を表すスローガンは、「科学に向かって邁進(向科学進軍)」であった。

科学に向かって邁進

 建国期の科学技術政策は、毛沢東主席の主導のもとで周恩来首相が実務的に支えた。この時期における中国の科学技術活動を表す言葉は、「科学に向かって邁進(向科学進軍)」である。
 これは、1956年に周恩来首相が中国共産党中央委員会の会議での報告で使用した言葉であり、清朝末期や中華民国の時代の動乱期に十分に発展しなかった近代科学技術活動を、新中国の発展とともに進めようという決意が表明されている。

新中国での科学技術関連機関や高等教育機関の整備

 建国期の科学技術政策や活動の特徴の一つ目は、新中国での科学技術関連機関や高等教育機関の整備である。

 新中国においては、科学技術政策を通じて科学技術の発展を支援、指導、調整することが、政府の重要な任務となった。国民政府時代の遺産である中央研究院と北平研究院の資産や人員が接収され、新たに中国科学院が創設された。中国科学技術協会、中国気象局、国家地質部、中国医学科学院、中国農業科学院なども次々に創設された。

 また、日中戦争や国共内戦時に地方に移転し活動の停滞をやむなくされていた大学が、北京や上海などで教育・研究活動を再開した。

 これにともない、戦争や国共内戦を避けて外国で研究活動を行っていた中国人の研究者で帰国するものが増えていった。

 また、優れた学者を認定しその意見を聴取するため、中国科学院学部委員(現在の中国科学院院士)制度も構築された。

ソ連との協力とその中断

 建国期の科学技術政策や活動の特徴の二つ目は、冷戦構造下におけるソ連との協力とその中断である。

 建国直後に起こった朝鮮戦争がその象徴であるように、新中国は東西の冷戦構造の中で経済活動を進めていく必要があり、そのためには東側陣営の盟主たるソ連との協力が不可欠であった。科学技術や高等教育も例外ではなく、ソ連を範としてその構築が進められた。

 中国科学院などにソ連の科学者が招聘されるとともに、多くの若者がソ連や東欧諸国に留学した。大学では、ソ連を範として専門技術者の育成に重心を置く単科大学を目指す院系調整が実施された。

 しかし、フルシチョフのスターリン批判により中ソ対立が発生し、1960年には中ソの協力が中断され、中国に派遣されていた専門技術者が一斉に引揚げられた。

中長期計画や五か年計画の策定

 建国期の科学技術政策や活動の特徴の三つ目は、計画経済の中で科学技術についても中長期計画や五か年計画を策定し、それにしたがって実施されるプロセスが形成されたことである。

 ソ連を範として社会主義経済の工業化を目指し、1953年に国全体の経済に関する「第1次五か年計画」が策定されたが、科学技術もこの五か年計画に歩調を合わせて発展させるため、1956年に建国後初の科学技術長期計画である「科学技術発展遠景計画綱要(1956年~1967年)」が策定された。

 そしてこの綱要を策定するために国務院に設置された科学計画委員会が、現在の科学技術部となっていった。

両弾一星政策の開始

 建国期の科学技術政策や活動の特徴の四つ目は、両弾一星政策の開始である。

 朝鮮戦争の際、膠着状態に陥った戦線を打開するため、国連軍のマッカーサー総司令官が中国への核兵器を含む攻撃を主張したことを毛沢東や周恩来らの共産党幹部は厳しく受け止め、第二次世界大戦の戦勝国としての立場を確保することをも念頭に、核兵器開発を含む両弾一星政策を決断することになった。

 中国は、当初中ソ友好同盟相互援助条約や中ソ科学技術協力協定などに基づき、ソ連から原爆やミサイル開発の協力を受けたが、1959年にソ連が一方的に協力を中断したため、それ以降は独自開発を推進していった。

科学技術の成果

 この時期は、新中国の科学技術における基礎を築いた時期であるが、成果もいくつかの分野で挙がっていった。

 毛沢東や周恩来が主導して進めた両弾一星政策による成果が、その最たるものである。副総理で国家科学技術委員会と国防科学技術委員会の主任を兼務する聂荣臻じょうえいしん元帥をヘッドとして、銭学森銭三強らの有力科学者を総動員して進められ、1960年に初めてのミサイル「東風1号(DF-1)」を打ち上げに成功した。
 続いて、1964年10月、新疆ウイグル自治区のロプノールで初の核実験に成功した。さらに同月、核弾頭を装備した東風2号Aミサイルを打ち上げ、20キロトンの核弾頭をロプノール上空で爆発させた。
 これによって、両弾一星の両弾の部分(核兵器とミサイル)の開発に成功した。

 学術的な研究成果も現れた。1963年、山東省青島市にある中国科学院海洋研究所所長の童第周博士は、世界で初めて魚類のクローン作製に成功した。
 1964年には、中国科学院上海生物化学研究所の鈕経義ちゅうけいぎ龚岳亭きょうがくていらは、ポリペプチドを使ってウシ・インスリンのB鎖を人工合成し、これと天然のA鎖の再編することにより、インスリンを作り上げることに成功した。
 続いて1965年、中国科学院上海有機化学研究所汪猷おうゆう研究者と北京大学化学部の邢其毅けいしき教授は協力して、インスリンA鎖の化学合成を完成させ、ウシ・インスリンの完全な人工合成に成功した。

 しかし、この時代は経済の停滞期であり、両弾一星を中心とした国防科学技術を例外として、他の一般科学技術に充当する資金や人材が十分ではなく、欧米などの先進国と比較してかなりの格差があった。