はじめに

 ジャッキー・イン(Jackie Yi-Ru Ying、1966年~)は、台湾に生まれ、幼いときにシンガポールに移り、米国で教育を受けたナノテク女性研究者である。2023年にサウジアラビアのキングファイサル賞を受賞して、世界的に注目される科学者となった。

ジャッキー・イン
ジャッキー・イン  SCWOのHPより引用

生い立ちと教育

 ジャッキー・インは1966年に、台湾の台北市に生まれた。インの父親は、中国語の学者であった。

 インが7歳となった1973年に父親がナンヤン大学の中国語教師となったため、シンガポールに家族とともに移住した。ナンヤン大学は現在のナンヤン理工大学(Nanyang Technological University、南洋理工大学)で、シンガポールの国立大学である。同校は、シンガポール国立大学とともに、シンガポールを代表する名門大学である。

 インの父親は、中国語だけでなく数学や英語、さらには水泳やバドミントンも、娘のインに教えた。また極めて好奇心が強く、大学や大学院での勉学の際、興味を持ってインに対して質問したり励ましたりした。このことが、インを研究者の道に導いてくれたという。

 インは、シンガポールの名門女子中学であるラッフルズ女学校に通うが、15歳となった時、父の仕事の関係で今度はニューヨークに移住した。

クーパー・ユニオンやプリンストン大学を卒業

 ニューヨークの高校を卒業後、インはニューヨークの名門私立大学であるクーパー・ユニオン(The Cooper Union for the Advancement of Science and Art)に入学した。
 クーパー・ユニオンは、マンハッタンのイースト・ヴィレッジにあり、創始者のピーター・クーパーがフランスのエコール・ポリテクニークを範として1959年に創立した科学と芸術を中心とする大学であり、近年まで入学が許可された生徒すべてに授業料全額免除の権利を付与していた。
ジャッキー・インは1987年に、最優秀の成績(summa cum laude)でクーパー・ユニオンを卒業し、工学士を取得した。

 インは、学士号を取得後にニュージャージー州にあるプリンストン大学大学院に進学し、化学工学を専攻して1988年に修士号を、1991年にPhDを取得した。

MITの教授に

 PhDを取得したジャッキー・インは、ドイツのフンボルトフェローに採用され、ザールブリュッケンにある新材料研究所で、ナノ結晶材料の研究を1年間行った。

 インは1992年に米国に帰り、母校であるMITの化学工学科のスタッフとなった。引き続きナノテクノロジーの研究を続け、35歳となった2001年にMITの正教授に昇進した。MITでも最も若い正教授の一人であった。

母国に帰り、A*STAR傘下の研究所幹部に

 ジャッキー・インは、MITの正教授となった2年後の2003年に大きな決断をした。シンガポールに新しく設立された生命工学・ナノテク研究所(Institute of Bioengineering and Nanotechnology:IBN)の常任理事(Exective Director)となって、母国に帰ることとしたのである。

 このIBNは、シンガポール政府の貿易産業省の傘下にある科学技術研究庁(Agency for Science, Technology and Research:A*STAR)に属する研究機関であり、当時A*STARの長官としてバイオ研究やその産業化に敏腕を振るったフィリップ・ヨー(Noel Philip Yeo Liat Kok: 杨烈国)により設立された。
 フィリップ・ヨーは1946年にシンガポールで生まれ、カナダのトロント大学で応用化学学士号を、シンガポール国立大学でシステム工学修士号を、ハーバード大学でMBAをそれぞれ取得している。ヨーは、シンガポール政府の国防省、経済開発会議などの勤務を経て、2000年にA*STARの長官となって、脆弱であったシンガポールのバイオメディカル系研究基盤強化に尽力した。
 ヨー長官は、バイオメディカル分野を21世紀の高付加価値産業として指定し、2001年に「世界のバイオメディカル研究のハブ」となる「バイオポリス(Biopolis)計画」を開始した。このバイオポリスに設置された複数の研究所の一つが、インが招聘された生命工学・ナノテク研究所(IBN)である。

バイオポリス
バイオポリスの建物

 インは、既に米国籍を取得していた。ヨー長官は、「鯨(海外の大物研究者)がグッピー(シンガポール国籍の研究者)を育てる」として、多額の研究資金(基礎・応用研究を問わず)を元に海外の大物研究者を招聘し、人材の開発と育成に努めた。ジャッキー・インは、このヨー長官の熱い帰国要請を受けた一人であった。

ナノテクで成果

 ジャッキー・インは、IBNの幹部として後進の指導に当たるとともに、自らも積極的に研究活動を行った。

 インの主たる研究対象は、ナノテクノロジーと生物工学、特に生物医学および触媒用途のためのナノ材料とナノデバイスの設計と合成であった。インの研究室では、新しいナノ多孔質材料、ナノ複合材料、およびナノデバイスを作成した。これらは、医薬品合成、グリーンケミストリー、エネルギー貯蔵から、ナノ医療、薬物送達システム、細胞および組織工学、バイオセンサー、医療診断に至るまでの幅広い用途が期待されている。

 インは2018年にIBNの常任理事を辞職し、A*STARの協力を得つつ自らの研究室であるNanoBioを立ち上げ、現在も積極的に活動を行っている。インは研究論文の発表だけでなく、特許の取得にも熱心であり、これまでに350を超える論文を発表し、90を超える特許を取得している。

国際賞を受賞

 ジャッキー・インは2015年に、ムスタファ賞を受賞した。ムスタファ賞は、イスラム協力機構(OIC) がイスラム教徒およびイスラム諸国の非イスラム教徒の科学者に授与する賞でイスラム教徒のノーベル賞と呼ばれている。インは30代で、イスラム教に改宗している。

 インは2023年に、サウジアラビアの第3代国王ファイサルの遺徳をしのんで創設されたキングファイサル国際賞(科学部門)を受賞した。受賞理由は「先進的なナノ材料・システムの合成およびそれらの生物医学やエネルギー変換への応用(for the synthesis of various advanced nanomaterials and systems, and their applications in catalysis, energy conversion)」であった。同賞は、盧煜明が2014年に、王暁東が2020年にそれぞれ受賞している。

ジャッキー・インのキングファイサル賞授賞式
キングファイサル賞を受賞するジャッキー・イン キングファイサル賞HPより引用

 

参考資料

・Jackie Yi-Ru Ying https://www.a-star.edu.sg/docs/librariesprovider36/profiles/jyying.pdf
・Singapore Council of Women's Organisations (SCWO)のHP Jackie Yi-Ru Ying
・The Straits Times HP  Singapore-based scientist Jackie Ying clinches highest accolade for academic inventors
・The Cooper Union Almni Association HP Jackie Ying, ChE’87