はじめに

 盧煜明(1963年~)香港中文大学教授は、現在最もノーベル賞受賞の可能性が高いと目される中国系科学者の一人である。

 盧煜明は、現在中国や日本を含めて世界中で行われている、非侵襲的出生前診断の技術を開発した科学者である。

盧煜明
盧煜明 百度百科HPより引用

生い立ちと教育

 盧煜明(卢煜明、Dennis Yuk Ming Lo、デニス・ロー)は、1963年に当時英国領であった香港に生まれた。父親の盧懐海(卢怀海)は著名な精神科医で、広東省東部にある潮州市から1946年に香港に移住した人である。母親はピアノや声楽の音楽家であり、音楽教師でもあった。小さい頃の盧煜明は、父親・盧懐海の書斎にかくれんぼをするのが好きで、そこにあった医学書の図や文章に見入っていた。また、研究熱心で学会などでの発表を多く行った父は、盧煜明の前でよくリハーサルを行い、それが盧煜明の科学者としてのキャリアに役立ったという。

 盧煜明は、香港市内のカソリック系の男子校である聖ジョセフ・カレッジで基礎教育・中等教育を受け、20歳となった1983年に英国ケンブリッジ大学に留学し、そこで2年間の医学前期教育を受けた。1986年にはオックスフォード大学に移り、臨床と基礎研究の両方に励み、同大学からPhDとMDを取得した。1994 年、盧煜明はオックスフォード大学の臨床生化学の講師となった。

中国へ帰国し、香港中文大学へ

 香港は1997年7月に英国から中国に返還されることになっていたが、盧煜明はその前の同年1月にオックスフォード大学を退職して香港に戻り、香港中文大学(Chinese University of Hong Kong)の職員となった。

 香港中文大学は、香港大学、香港科技大学と並んで香港の3つの有力大学の一つで、国際的な評価も高く、QS国際ランキング2023で38位、THE国際ランキング2023でも45位である。中文は中国文化全般を意味しており、学部(学院)として文学、教育、法学、工学、理学、医学などを有する総合大学である。

非侵襲的出生前診断の手法開発

 盧煜明は、胎児の出生前診断についての多くの発見をしてきた。

 盧煜明は、香港に帰国直後より分子生物学の臨床応用に取り組み、妊娠中の女性の血漿中に高濃度の胎児DNAが存在することを証明し、非侵襲的な出生前DNA検査への道を開いた。
 それまでは胎児の染色体や遺伝子に異常があるか否かの最終的な判定のためには、絨毛染色体検査や羊水染色体検査という侵襲的検査が必要だった。つまり妊婦の腹壁や子宮に針を刺すなどして胎児の細胞を採取するもので、検査による流産の可能性もあった。
 これに対し、盧煜明は、妊婦の血液中に胎児のDNAの一部が漂っていることに目を付け、それを解析することで安全かつ正確な出生前検査ができないか考えたのである。

 最初に出生前検査の手法を開発したのは、Rh 陰性の母親からRh陽性の胎児ができた場合に発生する貧血の一種「Rh式血液型不適合妊娠」への対処であった。

 後に述べるSARSへの対応で、盧煜明は出生前DNA検査の研究中断を余儀なくされたが、SARSが収まった後同研究を再開し、2008 年に当時長足の進歩を遂げていた新型シーケンサー装置を用いて、21番染色体が一つ多いことによって引き起こされるダウン症候群の検出を行い、2011 年に臨床応用にこぎ着けた。

 盧煜明は2010年に、ハリー・ポッターの3D映画を見て胎児のゲノムを解読する方法を思いつき、胎児が受け継いだ父親由来と母親由来の染色体DNAを別々に解読することに成功した。すなわち血液中には母親由来の染色体DNAは多く含まれるが、父親由来の染色体DNAは胎児のDNAとしてわずかしか含まれないため、その量の違いから、母親には存在しない DNA 配列を解読した。
 これにより、胎児の遺伝子マップ全体を作成し、遺伝病や癌の出生前診断に革命的なブレークスルーをもたらした。

 2020年現在、盧煜明らが開発した「非侵襲的出生前診断」の手法は、世界中の90以上の国と地域で広く採用されており、毎年700万人以上の妊婦に恩恵をもたらしている。

SARSへの貢献

 2003年に広東省で発見された重症急性呼吸器症候群(SARS)の流行は、急速に香港に広がった。事態を重く見た香港中文大学は、SARSウイルスの遺伝子解明と迅速なウイルス検査方法の開発に専念する研究チームを同大学の医学部内に設置し、チームの責任者として盧煜明を任命した。同チームは、作業開始から 13 日目後に、ウィルスの遺伝子解読に成功し世界に発表したが、残念ながらカナダと米国の疾病管理予防センターに一歩遅れを取ってしまった。

 遺伝子解読とは別に、盧煜明は母親の血漿中の胎児 DNA の理論を SARSコロナウイルス検査に適用し、入院初日から検査が可能で、精度は80%と高く、患者の重症度を数値化できる新しい検査方法の開発に成功した。

数々の国際賞を受賞

 以上の様な成果を受けて、盧煜明は数々の国際賞を受賞している。以下に主なものを挙げる。

 2014年、サウジアラビアの第3代国王ファイサルの遺徳をしのんで創設されたキングファイサル国際賞(医学部門)を受賞した。同賞は、山中伸弥京都大学教授がノーベル賞受賞前の2011年に受賞している。

 2015年、中国国内の顕著な業績を挙げた科学者を顕彰する未来科学大賞(生命科学賞)を受賞した。

 2016年には、クラリベートアナリティックス社の引用栄誉賞・化学分野を受賞し、ノーベル賞受賞に最も近い科学者の一人となった。

 2021年、フェイスブック創業者のマーク・ザッカーバーグ夫妻らがスポンサーとなって設立された生命科学ブレイクスルー賞を受賞した。この賞は、2013年に山中伸弥京都大学教授、2017年に大隅良典東京工業大学特任教授が、それぞれノーベル賞受賞前に受賞している。

 2022年、ラスカー・ドゥベーキー臨床医学研究賞を受賞した。この賞の多くの受賞者も、後にノーベル賞を受賞しており、2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞した屠呦呦も2011年に同賞を受賞している。

 盧煜明は、これらの業績から中国ではノーベル賞受賞に対する期待が極めて高い。

参考文献

・网易HP 「他踏入了医学界百年的禁区,成为无创DNA产前检测的奠基人」https://www.163.com/dy/article/HIHTN4UG0553BF5P.html
・Breakthrough Prize HP Yuk Ming Dennis Lo https://breakthroughprize.org/Laureates/2/L3894
・ラスカー財団HP 「Noninvasive Prenatal Testing Using Fetal DNA
2022 Lasker~DeBakey Clinical Medical Research Award」 https://laskerfoundation.org/winners/noninvasive-prenatal-testing-using-fetal-dna/