江沢民時代の科学技術の特徴~科教興国戦略
江沢民時代の科学技術政策の特徴は、改革開放路線を維持して経済発展を強化し、科学技術と教育を一体的に強化して国を興す「科教興国戦略」である。
研究開発資金の大幅な拡充
江沢民時代の科学技術の特徴の一つ目は、研究開発資金の大幅な拡充である。
1992年春の南巡講話以降、改革開放路線が再確認され外資導入が再開されると、沿岸部を中心に様々な製造業が発展し、中国は世界の工場としての地位を確立していく。それにともない科学技術への投資が増加し、1992年に198億元(4500億円)であったものが、2003年には1540億元(2兆1600億円)と約8倍も増加している。
ただ、次表の通り2003年時点の米国の研究開発費は2940億ドル(34兆1000億円)、日本は16兆8000億円であるので、これらの国々との差はまだかなり開いていた。
図表 中国、米国、日本の研究開発費比較
国名 | 1992年の研究開発費 | 2003年の研究開発費 | 伸び率 |
---|---|---|---|
中国 | 198億元(4500億円) | 1540億元(2兆1600億円) | 7.78倍 |
米国 | 1660億ドル(21兆30億円) | 2940億ドル(34兆1000億円) | 1.77倍 |
日本 | 13兆9000億円 | 16兆8000億円 | 1.21倍 |
江沢民時代のスローガン・科教興国戦略
江沢民時代の科学技術の特徴の二つ目は、江沢民総書記がスローガンとした科教興国戦略である。
科教興国とは、科学技術と教育を経済社会発展の重要な手段と位置づけ、科学技術と教育の振興により国家を繁栄に導くことである。
とりわけ、中国の高等教育を世界的な水準にまで高めることを目的として、高等教育の重点化政策に積極的に取り組んだ。この時期に始められた重点化政策である211工程と985工程は、北京大学や清華大学などを世界レベルの大学に押し上げたことで成果があった。
海外に滞在する研究者の帰国奨励
江沢民時代の科学技術の特徴の三つ目は、海外に滞在する研究者の帰国奨励である。
文革終了後に鄧小平が主導した欧米や日本への留学生の派遣政策により、多くの優れた研究者が外国に滞在して活躍していたが、これを中国国内に戻して活躍させる回帰政策(海亀政策)が開始された。文革時代に国内で研究者の育成が困難であったこともあり、国内の有力大学や中国科学院などの研究機関でも、優れた研究指導者は少なかった。改革開放政策による経済の進展により国内の大学や研究機関での施設・装置の充実や待遇の改善と相まって、欧米や日本で成果を挙げつつあった研究者を呼び戻す絶好のタイミングであった。中国科学院が開始した百人計画は、その先駆をなすものであった。
朱鎔基改革の科学技術への影響
江沢民時代の科学技術の特徴の四つ目は、朱鎔基改革の科学技術への影響である。
朱鎔基首相の三大改革において、国有企業改革の一環で国有企業の傘下にあった研究機関の改編・企業化が進められた。最初は、国家経済貿易委員会が管理する石炭局、機械局、冶金局、石油化学局など10の国家局所属の242の機関の改革が行われ、この成果を見つつ他の部局の研究機関でも改革が実施された。
またWTOに加盟した中国の企業はグローバル化の荒波に直面するが、その際に共産党と政府は技術創新(イノベーション)を強化し、より高度な科学技術を駆使した産業への転換を図る産業技術政策を展開していった。
知的財産保護政策の強化
江沢民時代の科学技術の特徴の五つ目は、知的財産保護政策の強化である。
中国は、1984年に工業所有権保護に関するパリ条約加入以来、特許制度などを整備してきたが、欧米などから見ると知的財産保護は十分でなかった。江沢民政権では、欧米や日本からの外資導入の拡大やWTOへの加入が重要なアジェンダとなったため、外国からの導入技術や研究者の知財権保護強化が進められた。
江沢民時代の科学技術の成果
この時期は、21世紀に向けて中国の科学技術体制を整えた時代と考えられ、それほど華々しい成果は見えなかった。
その中で成果を挙げたのは、有人宇宙活動への足がかりである。ソ連崩壊後にロシアと交渉し、ソユーズ宇宙船の技術導入を経て中国版の宇宙船「神舟」の開発を進め、1999年11月に神舟1号の無人での打ち上げに成功している。その後、神舟2号から4号までを、実験動物やダミー人形などでの実験打ち上げを繰り返し、周到に有人での打ち上げを準備していった。
また、中国版のGPSシステム「北斗」の構築も進められ、2000年に2機、2003年に1機の航行測位衛星が打ち上げられて、実証実験が開始された。これは、米国、ロシアに続くものであった。
文革前や文革中の中国は、科学技術面でほぼ鎖国状態にあり、欧米などの国際的な論文誌に投稿することはまれであったが、この時代には投稿も徐々に増加し始めた。中国の科学論文数は次表の通り、1992年で世界の14位であり米国の約20分の1、日本の約5分の1であったが、2003年では世界6位で米国の約5分の1、日本の約6割にまで増加している。
図表 主要国の科学技術論文数の比較(単年、整数カウント法)
国名 | 1992年の論文数 | 順位 | 2004年の論文数 | 順位 |
---|---|---|---|---|
中国 | 9,119 | 14 | 47,235 | 6 |
米国 | 191,913 | 1 | 248,276 | 1 |
日本 | 46,558 | 2 | 76,666 | 2 |
参考資料
・文部科学省科学技術・学術政策研究所「科学研究のベンチマーキング2019」https://www.nistep.go.jp/archives/41356