はじめに

 中山大学中山医学院 (Zhongshan School of Medicine, Sun Yat-sen University) は、広東省広州市にある中山大学に属し、歴史と実績を有する医学高等教育機関である。

 大学本体も医学院も、辛亥革命を主導した孫文の号「中山」に由来する。

 若き日の孫文も、中山医学院の前身で学んだ。

中山医学院の写真
中山大学中山医学院  同医学院のHPより引用

1. 名称と所管

(1)名称

・日本語表記 中山大学中山医学院
・中国語表記 中山大学中山医学院  略称 中山医 
・英語表記 Zhongshan School of Medicine, Sun Yat-sen University   

 中山大学、中山医学院の名称は、近代中国の革命家である孫文に由来する。孫文は、中国では孫中山、欧米では孫逸仙のローマ字表記のSun Yat-senで知られている。中山の中国語読みをローマ字表記するとZhongshanとなり、中山大学中山医学院の英語表記は両方が使用されている。

(2)所管

 広東省広州市にある中山大学の所管である。

 2000年に、旧中山大学と中山医科大学が合併し、新たな中山大学が発足し、中山医科大学の医学部門は中山大学中山医学院となった。

2. 本部の所在地

 中山医学院の本部は、広東省広州市越秀区中山二路74号である。一方、中山大学の本部は、広州市海珠区新港西路135号である。いずれも広州市内の中心部に位置している。

 広東省は、中国大陸の南に位置し、南シナ海に面している。北は福建省・江西省・湖南省と接し、西は広西チワン族自治区と接している。また南西には、かつて広東省の一部であった海南省がある。省の南に香港・マカオの両特別行政区が存在している。
 中山医学院のある広州市は、広東省の省都である。秦の始皇帝がこの地を占領し、県を設置したのが歴史の始まりである。近代で鎖国的な政策を取った明や清の時代でも、広州市は例外的に欧米との貿易を認められていた。中華人民共和国成立後も、香港に近いという地の利を活かし、広州市は中国の対外貿易の拠点となった。

広東省広州市の風景
中山医学院のある広州市

3. 沿革

(1)米国キリスト教団体が設置した博済医院

 中山医学院は、プロテスタントの宗派である米国会衆派に属する伝道師で、医師でもあったパーカー(Peter Parker、伯驾)が、1835年に広州市で開業した眼科「博済医院(The Canton Hospital)」を、源流とするものである。

中山医学院の源流である博済医院の写真
博済医院 百度HPより引用

 この博済医院が総合病院に発展し、同医院の傘下に医学教育を行う「博済医学堂(Pok Tsai Medical School)」が1866年に設置された。

 同医学堂は1879年に、「博済医院南華医学校(博济医院南华医学校、South China Medical College)」と改名するとともに、初めて女性の学生2名を受け入れた。これは、中国の西洋医学史上初めてのことである。また、1886年には若き日の孫文も入学している。

 博済医院南華医学校は、1936年に私立嶺南大学医学院となった。
 私立嶺南大学は1888年に、米国キリスト教長老会により広州市に設置された「格致書院(Canton Christian College)」を源流とする。義和団事件の影響で一時マカオに移転したが、再び広州市に戻った。1927年に大学の名称が「私立嶺南大学(Lingnan University)」となった。

 私立嶺南大学は、日中戦争時は香港に疎開したが、太平洋戦争が始まり香港も日本軍に占領されたため、停校となった。1945年の日本軍の敗戦とともに、広東省で復校した。

(2)院系調整で医学単科大学に

 中華人民共和国建国後の1952年に、中国全土において院系調整政策が実施され、旧ソ連に倣った大学と学部の再編が行われた。私立嶺南大学は、米国系の学校であったことから、他の大学への合併を余儀なくされ、多くの学部が現在の中山大学に編入された。その中で同大学の医学院は、当時広東省にあった1908年創設の「光華医学堂(後に広東光華医学院)」と1909年創設の「広東公医学堂(後に中山大学医学院)」と合併し、1953年に「華南医学院(华南医学院)」となった。

 1956年に、同医学院は「広州医学院(广州医学院)」と改名した。翌1957年には、さらに「中山医学院」に改名した。
 1985年に中山医科大学と改名した。

中山医科大学の写真
中山医科大学と孫文の像 百度HPより引用

(3)中山大学との合併

 2000年には、中山大学と中山医科大学が合併し、新たな中山大学が発足した。

 ただし中山医科大学の部分で、医学関係は中山医学院となったが、口腔医学は「光華口腔医学院(光华口腔医学院)」、公共衛生学は公共衛生学院(公共卫生学院)」、看護学は「看護学院(护理学院)」となり、医学関係と対等の部局になった。
 また、薬学関係は旧中山大学生命科学院薬学系であったが、合併後の新中山大学で学院となり、「薬学院(药学院)」となった。

4. 規模

(1)学生数、教職員数

 中山医学院の学生数総計は、2022年末時点で3,733人である。このうち学部学生数は2,931人、修士学生数が364人、博士学生数が438人である。これとは別に留学生が93人である。

 中山医学院の教職員数は、全体で513人である。このうち専任教師は164人、うち教授が71人、副教授が70人である。

 なお、上記の数字は中山医学院単体の数字であり、元々中山医科大学にあった口腔医学などの部分は入っていない。また、附属医院のスタッフも入っていない。

(2)学科など

 中山医学院は、臨床医学(8年制)、臨床医学、基礎医学、法医学などの学科を有する。

(3)双一流学科建設

 中国は2017年に、国内の大学とその学科を21世紀半ばまでに世界一流とすることを目標とする政策(双一流政策)を開始した。
 2022年に改訂された双一流学科建設において、中山医学院は以下の2学科が選定されている。
○基礎医学
○臨床医学
 なお、すでに述べたように、中山大学には薬学院が設置されており、この薬学科も双一流学科に選定されている。

(4)附属医院(中山大学)

 中山医学院のHPには附属医院の記述がない。一方、中山大学本体のHPには、次の10の附属医院の名がある。名称もすべて「中山大学(附属)○○医院」となっていて、「中山大学中山医学院附属○○医院」ではない。したがって、以下の附属医院は、中山大学中山医学院ではなく中山大学本体に直属していると考えられる。

○中山大学附属第一医院
○中山大学孫逸仙記念医院(附属第二医院)
○中山大学附属第三医院
○中山大学眼科中心
○中山大学腫瘍予防治療中心
○中山大学附属口腔医院
○中山大学附属第五医院
○中山大学附属第六医院
○中山大学附属第七医院(深圳)
○中山大学附属第八医院(深圳福田)

(5)国家重点実験室など

 中山大学には、医学関係で次の2か所の国家級の科学研究施設がある。ただし、これらは、中山大学直属の附属医院に設置されており、中山医学院内の組織ではない。
○華西悪性腫瘍予防治療全国重点実験室(华南恶性肿瘤防治全国重点实验室、中山大学腫瘍予防治療中心)
○眼科学国家重点実験室(中山大学眼科中心)

5. 特記事項

(1)パーカー医師

 中山医学院の源流である博済医院を設置したのは、米国人医師のパーカーである。

中山医学院の前身である博済医院を開設したパーカーの写真
博済医院を開設したパーカー医師 
百度HPより引用

 ピーター・パーカー(Peter Parker、伯驾)は、1804年に米国マサチューセッツ州に生まれ、1834年にイェール大学の医学科を卒業し、長老派教会の牧師に任命されて広州に赴いた。そして、市内で眼科である博済医院を開設し、これが現在の中山大学中山医学院につながっている。

 1840年にアヘン戦争が始まると、パーカーは博済医院を一旦閉鎖して米国に戻ったが、2年後に再び広州に戻って博済医院を再開した。そして博済医院を、眼科を中心とした医院から他の疾患も対象とした総合医院に徐々に発展させた。このためパーカーは、「メス(lancet)を用いて福音を説く(用柳叶刀:即手术刀传福音)」と称された。

 パーカーは、当時世界でも最先端の医療技術を身につけていて、扁桃腺の除去(1836年)、膀胱結石の除去(1844年)、エーテル麻酔の使用 (1847年)、クロロホルム麻酔の使用 (1848年) などを、中国で初めて実施したという。

 1844年頃から、活動の場を米国と清国の外交交渉に移し、当初は通訳などを務めていたが、1855年には清国駐在の米国公使となった。パーカーの清国に対する交渉姿勢は強硬であり、「中国人が従わないのであれば、壊滅させる(中国人不服从就毁灭、Bend or Break)」と述べたという。

 しかし健康を損なって、1857年に米国に帰国して首都ワシントンに住んで、1888年に亡くなっている。

(2)孫文

 中山医学院や本体である中山大学は、辛亥革命を主導し中華民国を創立した孫文(孫中山)との関係が深い。孫中山の号は、孫文が日本滞在時に名乗っていた「中山樵(きこり)」に由来すると言われている。中国では孫文より孫中山が一般的である。

辛亥革命を主導した孫文
孫文 百度HPより引用

 孫文は1866年に、広東省の香山に生まれ、ハワイなどで基礎教育を受けた後、1886年に中山医学院の前身である博済医院南華医学校に入学した。孫文は、同校在学中に清国に対する革命を唱え始めたと言われている。
 翌1887年には同校を去って、香港に設立された「香港華人西医書院(香港华人西医书院、College of Medicine for Chinese, Hong Kong,現在の香港大学医学院)」に転校した。
 孫文は、辛亥革命後の1924年に国立広東大学を創設しており、これが現在の中山大学の直接の前身である。
 孫文は、「革命いまだ成らず」との言葉を残して1925年に没するが、彼の功績と人柄さらには革命に対する情熱に、現在の中国国民も深い敬意を抱いている。江蘇省南京市にある中山陵には、現在も大勢の人が訪れている。

(3)中山大学医学院など

 2000年に、旧中山大学と中山医科大学が合併し、新たな中山大学が発足したが、すでに述べたように中山医科大学全体が中山大学中山医学院となった訳ではない。
 中山医科大学の臨床医学、基礎医学などの部分を中心に中山医学院が組織され、公共衛生学院、口腔医学院、看護学院が中山医学院とは別組織として設置された。また、他の医学院では内部に設置されている薬学院も、中山医学院と同格で中山大学の傘下に設置された。

 さらに2017年には、広東省の深圳市に中山大学医学院が新たに設置された。これは中山大学が深圳の医学教育事情を考慮して設置した基礎医学院(深圳)と臨床医学院(深圳)を前身とするものである。中山医学院と紛らわしいが、全くの別組織である。

中山医学院とは別組織の中山大学医学院の写真
中山大学医学院  同医学院のHPより引用

(4)レベルの高い附属医院

 中山大学は、既に述べたとおり10か所の附属医院を有している。これらの附属医院は、中山大学に直属し、中山医学院の傘下にあるわけではないが、中山医学院の学生たちの臨床医院の役割をしていることは間違いない。

 復旦大学の医院管理研究所が公表した「中国医院2022年度全国综合排行榜」によれば、上位100か所の医院の中に、中山大学の附属医院は、次の通り5か所ある。

○中山大学附属第一医院(第15位)

中山大学附属第一医院 同医院のHPより引用

○中山大学腫瘍予防治療中心(中山大学肿瘤防治中心、第32位)

○中山大学附属第三医院(第58位)

○中山大学孫逸仙記念医院(中山大学孙逸仙纪念医院、65位)

○中山大学中山眼科中心(第70位) 

参考資料

・中山大学中山医学院HP https://zssom.sysu.edu.cn/zh-hans
・中山大学HP https://www.sysu.edu.cn/
・中山大学医学院HP https://szmed.sysu.edu.cn/
・中山大学馆藏近代医学档案情况简介 https://library.indianapolis.iu.edu/wmicproject/sites/default/files/SYSU_Medical_School_Report.pdf
・華典HP 伯驾 https://bdcconline.net/zh-hans/stories/bo-jia 
・中山大学附属第一医院 https://www.fahsysu.org.cn/home 
・中国医院及专科声誉排行榜 https://rank.cn-healthcare.com/fudan/national-general