はじめに
北京協和医院 (Peking Union Medical College Hospital) は、中国トップクラスの歴史と実績を有する医療機関であり、兄弟組織である北京協和医学院も優れた高等医学教育機関である。
1. 名称
○中国語表記:北京协和医院 略称 协和医院
○日本語表記:北京協和医院
○英語表記:Peking Union Medical College Hospital 略称:PUMCH
2. 所管
中国の政府である国務院に、医学・健康などの行政を行っていて日本の旧厚生省に相当する機関として、国家衛生健康委員会がある。この国家衛生健康委員会の直轄組織として、中国医学科学院・北京協和医学院があり、ここが北京協和医院を所管している。
中国医学科学院・北京協和医学院は、医学研究を総括する中国医学科学院と医学高等教育を行う大学である北京協和医学院が、中華人民共和国建国後に合体して出来た組織であり、両方のヘッドは同一人物となっている。
沿革でも述べるが、北京協和医院は元々北京協和医学院の臨床医院であったが、2つの組織の合体によりその下部組織となった。合体後は、北京協和医学院の臨床医院であると共に、中国医学科学院の臨床医院としても位置づけも有することになった。
3. 所在地
北京協和医院のメインの建物は、紫禁城の東側の北京市東城区師府園1号にあり、兄弟組織の北京協和医学院がその近くの東城区東単三条9号にある。いずれも、北京の中心街である王府井(ワンフーチン)の近くにある。
近年、新しい病棟を持つ西院が、北京市西城区大木倉胡同41号に設置された。これは、紫禁城の西側に位置する。
4. 沿革
(1)北京協和医学院の創設と北京協和医院の設置
北京協和医院の兄弟組織である北京協和医学院の母体は、1906年に米英のキリスト教団体が北京に設立した「協和医学堂(协和医学堂)」である。
一方、米国資産家のロックフェラー(John Davison Rockefeller、1839年~1937年)は、中国での西洋医学教育の振興に強い関心を持ち、1915年にロックフェラー財団を通じて協和医学堂を買収し、「北京協和医学院(北京协和医学院、Peking Union Medical College)」を設立した。
この北京協和医学院の臨床医院として、1921年に開設されたのが北京協和医院(北京协和医院、Peking Union Medical College Hospital)である。
(2)日本軍による占領
1937年に日中戦争が始まり、北京が日本軍に占領されたが、北京協和医院は米国の関与する施設であったため、一種の治外法権的な措置から日本軍の占領は免れて業務を続行することが出来た。
しかし、太平洋戦争が始まると日本にとって米国は敵国となり、1941年末には北京協和医院は日本軍に占領され、業務が完全に停止した。
(3)新中国建国後
第二次世界大戦で日本が敗北し、北京から日本軍が撤退すると、北京協和医院は再建された。1949年に国共内戦で中国共産党が勝利すると、同医院は共産党により接収された。
文化大革命の際には、北京協和医院は革命派の批判対象となって「反帝医院」と改称された。文革終了後、再び北京協和医院に戻り、現在に至っている。
5. 規模など
(1)規模
北京協和医院のHPによれは、同医院の規模は次の通りである。
○病床数:既に述べたように北京協和医院は東院と西院を有しており、合わせて2,000床を超える病床数を有している。
○スタッフ:約4,300名を数える。
○その他のデータ:2023年の年間手術件数は7万3,000件、年間退院者数は13万人。
(註)病床数を日本と比較すると、2021年7月時点で日本最大のベッド数を有するのは愛知県豊明市にある藤田医科大学病院の1,435床であり、東京では東京大学附属病院が1,226床を有し日本第3位である。
東京大学付属病院の職員数を見ると、全体で4,273人(2023年4月現在、短時間有期雇用職員等を含む)となっている。
東京大学付属病院の外来患者数は、2023年一年間で64.1万人、救急患者数1.2万人、手術件数は1.2万件、新入院患者数は2.7万人である。
(2)科学研究施設
北京協和医院は、次の国家的な施設を有している。
○難病・希少疾患国家重点実験室
○皮膚・免疫疾患国家臨床研究中心
(3)評価
復旦大学の医院管理研究所による中国医院ランキング(2022年)での評価は次の通りである。ランキング全体は、こちらを参照されたい。
○総合順位:全国1位
○医療評価:満点が80点のところ、80点で全国1位
○学術評価:満点が20点のところ、15.301点で四川大学華西医院(20点)についで全国2位
6. 特記事項
(1)優れた医師を輩出
北京協和医院は100年の歴史を有していることもあり、国民政府の時代を含め、優れた医師を輩出している。代表的な例を挙げると、以下の人達であり、詳しくはそれぞれの記事を参照されたい。
○湯飛凡(汤飞凡):国民政府時代から新中国初期に活躍した細菌学者であり、眼の病であるトラコーマ治療でも画期的な成果を挙げたが、文革前の反右派闘争で批判され、自ら命を絶っている。
○張孝騫(张孝骞):米国に留学して医学を学び、帰国後に近代内科学の基礎を築いた。また、医学教育にも力を注ぎ、北京協和医学院や湘雅医学院の発展に寄与した。
○林巧稚:長く北京協和医院に勤務した中国の著名な女医であり、女性に対しての差別的な環境にも屈することなく努力を重ねて、近代の科学技術の歴史に名を残した。
(2)孫文・終焉の地
北京協和医院は、北京市の中心部にあり、また優れた医療技術を有するため、多くの著名人や政府・共産党の幹部が利用する医院である。ここで、生まれたり亡くなったりする著名人も多い。その中には、日本にもなじみが深い孫文もいる。
中国革命の父と呼ばれ辛亥革命を主導した孫文は、志し半ばにして病に倒れ、1925年3月に死去したが、その最後の地がこの北京協和医院であった。死去した後、霊柩は江蘇省の南京に移され現在の中山陵に葬られた。
参考資料
・北京協和医院HP https://www.pumch.cn/index.html
・北京協和医学院HP(中国医学科学院と同一)https://www.cams.cn/index.htm
・東京大学付属病院HP https://www.h.u-tokyo.ac.jp/