はじめに

 徐寿は、清末の洋務運動を主導した曾国藩や翻訳家で数学者の李善蘭らとともに、蒸気船開発や近代化学の導入に尽力した。

徐寿
徐寿

生い立ちと教育

 徐寿(Xu Shou)は、1818年に江蘇省無錫の農家に生まれた。父は徐寿が4歳の時に亡くなり、母が徐寿を育てていたが、その母も徐寿が17歳の時に亡くなってしまった。当時は早熟早婚のため、母が亡くなった時徐寿はすでに結婚しており、子供が1人いた。家族を養うため、農業に従事しながら商売をしたり上海に出かけたりしつつ、知識欲を満たすために読書に励んだ。しかし、単なる詩文や四書五経の読書では実際の生活にほとんど役に立たないと痛感し、より実用的な学問を目指した。

 当時の無錫では手工業が盛んであり、徐寿もその影響で小さいときから自らの手でいろいろなものを作るのが好きであった。青年期に達してからは、ものを作ることだけではなく、動作原理などを探求するための読書にも関心を示し、中国の古典や西欧科学技術の翻訳を通じて、数学、天文暦、物理、医学などに興味を持った。

盟友・華蘅芳との出会い

 清朝衰退の要因であるアヘン戦争が開始されたのは、徐寿が22歳となった1840年であり、1842年には清朝が敗北して南京条約を締結している。さらに太平天国の乱が始まったのが1851年である。これらの出来事に遭遇し、徐寿は自国の行く末に心を痛め、科学技術での立て直しを誓う。このころ徐寿は)華蘅芳(华蘅芳、(かこうほう)という優れた友人を得た。華蘅芳は1833年にやはり江蘇省無錫に生まれており、徐寿の15歳年下である。数学好きの父親の影響を受け、華蘅芳は10歳から中国の数学書を学習した。

華蘅芳
華蘅芳 百度HPより引用

 徐寿は、華蘅芳と一緒に中国古典や翻訳書を勉強し、また機械模型などの製作も一緒に行った。1853年、徐寿(35歳)と華蘅芳(20歳)は連れだって上海の墨海書館を訪問し、同書館で翻訳・出版した西洋の近代物理、動植物、鉱物学などの書籍を購入するとともに、李善蘭(当時42歳)と知り合いとなった。徐寿と華蘅芳は無錫に帰った後、これらの翻訳書で得た知識を元にした実験に没頭し、プリズム的なものを自作して光の分光実験を行ったり、摩擦による静電気の発生実験を行ったりした。2人は、1856年にも連れだって墨海書館を訪問し、翻訳書や実験のための器具や薬品を購入している。

蒸気船の製造

 曾国藩は、安慶内軍械所を1861年に設置し、積極的に中国人科学者・技術者を登用した。徐寿と華蘅芳も、曾国藩の求めに応じて安慶内軍械所で働くこととなった。徐寿は、次男の徐建寅(1845年生まれで当時16歳)も同行させた。

 徐寿らは、英国やフランスなどの軍艦が中国国内の河川を自由に航行する様子を見て、自分たちも外国船のような蒸気船を製造したいと考え、まず蒸気船の動力である蒸気機関の自作に取りかかる。翻訳書や近くの長江に停泊する外国船を外から観察したりして情報を集め、3か月かけて1862年7月に中国初の蒸気機関を製作した。
 この成功に大いに喜んだ曾国藩は、徐寿らに蒸気船を自作するように命じ、1863年から徐寿は華蘅芳や次男の徐建寅らと蒸気船の製造に取りかかった。1864年には太平天国の乱がようやく平定され、安慶内軍械所は「南京金陵機器製造局」となって南京に移転した。徐寿らも南京に移動して引き続き蒸気船の開発を進め、ついに中国初の蒸気船「黄鵠」が完成し、1866年4月に曾国藩を招いて記念式典を挙行している。
 1866年末に、より大規模な軍需施設である「江南機械製造総局」が上海に設置されると、徐寿、徐建寅親子と華蘅芳は上海に向かい、「恵吉」、「操江」、「測海」、「澄慶」、「御遠」などの設計・製造を指揮し、中国近代造船工業の新たな局面を切り開いた。

 ちなみに、日本の幕末期の蒸気船開発をたどると、オランダの翻訳書などを元に日本で初めて蒸気機関を開発したのは島津斉彬率いる薩摩藩であり、その時期は1855年で徐寿の開発より7年早い。
 また薩摩藩は、開発した蒸気機関をその年のうちに既存の船に搭載し、日本初の蒸気船「雲行丸」を完成している。これも徐寿らの「黄鵠」の完成の11年前となる。ただし、「雲行丸」の技術的な完成度は低く、小舟並みの推力しかなかったという。
 実用的な蒸気船の開発は、鍋島直正の佐賀藩が1865年に製造した「凌風丸」が最初と言われている。つまり、清と日本はほぼ同時期に実用的な蒸気船を自力開発したことになる。

翻訳所と格致書院の設置

 一連の蒸気機関や蒸気船の製造において、西欧の科学技術の習得が不可避であることを改めて認識した徐寿は、1868年に上海江南製造総局内に翻訳館を設立し、西欧の科学関係の書籍の翻訳に従事する。徐寿は、主として1870年代から80年代の化学関係の書籍を体系的に選択し、英国人宣教師のジョン・フライヤー(傅蘭雅)とともに17年の間に『化学鑑原』(1871年刊)、『化学考質』(1883年刊)、『化学求数』(1883年刊)などを次々と出版していった。
 翻訳の中で徐寿は、英語の化学元素の第一音を漢字に訳しそれを同元素の漢訳名とした。例えば、金属元素の命名には、金ヘンを使いそれにこの元素の英語読みの一音を付ける形で、新しい漢字を作成した。鈉(ナトリウム)、鋅(亜鉛)、鎂(マグネシウム)などである。

『化学鑑原』の金属元素一覧の一部
『化学鑑原』の金属元素一覧の一部。ここでは「鈉(ナトリウム)」、「鎂(マグネシウム)」が掲載されている。(出典:京都大学東アジア人文情報学研究センター東方學デジタル圖書館)

 科学技術の知識を伝授するために、徐寿らは中国で初めて科学技術の知識を教える場所として、上海に「格致書院」を創立した。1879年に正式に学生の募集を開始し、鉱物、電気、測量、土木・建設、蒸気機関、製造などの授業を行った。徐寿はまた、中国初の科学技術誌『格致彙編』を創刊した。同誌は7年間出版され、多くの西洋の科学技術知識を紹介し、近代科学技術の普及に重要な役割を果たした。

『格致彙編』第一巻
『格致彙編』第一巻。ジョン・フライヤーの名前も見られる。(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 1884年に徐寿は病に倒れ、67歳で亡くなった。

次男の徐建寅

 なお、徐寿の次男である徐建寅は、父徐寿の生存中はずっと父に付き従って父の補佐をしていたが、父の死後は火薬の開発に心血を注ぎ、1900年に中国初の無煙火薬の製造に貢献したが、1901年には火薬製造中の事故で亡くなっている。親子二代で機械や化学の研究開発に殉じた生涯であった。

徐建寅の写真
徐建寅 百度HPより引用

 一方盟友の華蘅芳は、上海江南製造総局内の翻訳館で翻訳を担当し、また格致書院で数学などを教えた。晩年は教育活動が中心となり、上海の格致書院だけでなく、天津武備学堂、湖北両湖書院(武昌)、江陰南菁書院(無錫)などで教鞭を執り、1902年69歳で亡くなっている。

参考文献

・汪広仁編『中国近代科学先駆徐寿父子研究』清華大学出版会、1998年
・管成学『过渡時代的奇人:徐寿的故事』吉林科学技術出版社、2012年
・孔国平、佟健華、方運加『中国近代科学的先行者:華蘅芳』科学出版社、2012年