はじめに

 潘建偉(1970年~)中国科学技術大学副学長は、量子科学研究の最先端を支える世界的な研究者である。量子通信や量子コンピュータの開発で多くの成果を挙げている。

潘建偉の写真
潘建偉 百度HPより引用

生い立ち

 潘建偉(潘建伟、Jianwei Pan)は1970年に、上海の南西に位置する浙江省の東陽に生まれた。
 東陽は、浙江省の内陸部にある金華市の一部であり、同市の名を冠した金華ハムは地域の特産品として有名である。
 同じ金華市の一部で東陽の西隣に位置する義烏には、義烏国際商貿城を始めとした日用品の卸売市場が立地し、世界的な日用品取引の中心地である。我々が重宝している百円ショップの商品の多くは、この義烏国際商貿城を介して日本に入ってくると言われている。

国内での教育

 潘建偉は、1987年に地元の東陽中学(日本の高校に相当)を卒業し、安徽省合肥にある中国科学技術大学に入学し、近代物理学を専攻した。
 中国科学技術大学は、世界最大の研究機関と言われる中国科学院傘下の大学であり、理工系中心の大学として北京大学や清華大学などと並ぶ中国屈指の有名大学である。

 潘建偉は、1992年に同大学から学士号を、1995年に修士号を取得し、卒業後に同大学の助教となった。

オーストリアに留学し、ツァイリンガー教授に師事

 中国科学技術大学の助教となった一年後の1996年に、潘建偉はオーストリアのインスブルック大学に留学し、同大学でアントン・ツァイリンガー(Anton Zeilinger)教授の指導を受けた。

 ツァイリンガー教授は量子物理学を専攻し、米国のグリーンバーガー、ホーン両博士とともに量子もつれの状態「グリーンバーガー=ホーン=ツァイリンガー状態」についての論文を1989年に公表した量子科学研究の先駆者である。国際的な名声は高く、2008年にアイザック・ニュートン・メダル、2010年にウルフ賞物理学部門などを受賞している。

 ツァイリンガー教授がウィーン大学に移ったため、潘建偉もウィーン大学に移動し、1999年に同大学から博士号を取得した後も引き続きポスドクとしてツァイリンガー教授の元で量子科学の研究を続けた。研究テーマは量子通信の実験であり、ツァイリンガー教授とともにネーチャーなどに論文を投稿している。

百人計画で中国科学技術大学教授へ

 2001年に中国政府が実施していた百人計画の一つである「海外傑出人材導入計画」に選抜され、潘建偉は中国科学技術大学の物理学科の教授に就任した。31歳という若き教授の誕生であった。

 中国科学技術大学で引き続き量子科学研究に没頭し、2004年には中国科学技術大学のスタッフとともに、自らをラストオーサーとする“Experimental Demonstration of Five-photon Entanglement and Open-destination Quantum Teleportation”をネーチャーに発表するなど精力的に研究を続行し、中国科学技術大学を量子科学研究の中心に育てていった。

 潘建偉は中国に戻った後も、ツァイリンガー教授と共同研究を実施したり、ドイツのハイデルベルグ大学の客員教授に就任したりして、ヨーロッパの量子科学研究者と強いつながりを維持している。

人工衛星「墨子」を打ち上げ、量子通信実験を実施

 潘建偉は、国内の地点を結んでの量子通信実験や欧州や米国などとの共同の実験を繰り返した後、地上と宇宙を結んでの量子通信実験に取りかかることとした。中国科学院は、この潘建偉の構想を全面的にサポートするためプロジェクトチームを立ち上げ、そのヘッドに潘建偉を指名した。

「墨子号」と名付けられた量子通信衛星は2016年8月、中国甘粛省のゴビ砂漠にある酒泉衛星発射センターから打ち上げられ、無事に軌道に投入された。潘建偉はこの墨子号を利用して、中国国内や恩師ツァイリンガーのいるオーストリアなどの地上地点と宇宙を結んでの量子通信実験を無事に成功させた。史上初となる画期的な実験であり、ネイチャーの2018年のトップニュースで取り上げられるとともに、サイエンスにも掲載された。

墨子号の写真
墨子号 百度HPより引用

量子コンピュータ開発でも成果を

 潘建偉は、量子通信だけではなく、量子科学のもう一つの重要な応用と考えられる量子コンピュータの開発にも近年取り組んでいる。

 2020年末に、この量子コンピュータについての大きなニュースが中国からもたらされた。潘建偉ら中国科学技術大学のチームが、量子コンピュータのプロトタイプ「九章」の構築に成功し、優れた計算能力を実現させたというものである。現在世界最速のスパコン「富岳」で6億年かかると考えられる計算課題を、わずか200秒で解決したという。

 これに先立つこと3か月前に、米国のグーグル社のチームが、量子チップを搭載したプロセッサー「シカモア」を用い当時世界最速のスパコン「サミット」で2日かかる数学アルゴリズムの計算を200秒で行ったとの発表があり、潘建偉らのチームはこのグーグル社の快挙に続くものであった。

 コロナ対策などでも活躍した「富岳」などの汎用スパコンの対比で言えば、量子コンピュータはまだ原理実証中の段階にあり今後更に多くの成果を積み上げていく必要があるが、潜在的な計算能力の高さを示したことは間違いない。潘建偉らの成果を論文として掲載したサイエンスの査読者は、「最先端の実験」、「重大な成果」と評価している。

 量子通信にしろ量子コンピュータにしろ、現在欧米や日本の科学者技・術者が開発にしのぎを削っている状況にある。例えば、日本の古澤明東京大学教授もこれらの研究で世界最先端の位置にいる。またグーグルだけではなく、IBMやマイクロソフトなど他の民間企業も量子コンピュータの開発に全力を挙げていると言われている。

国家自然科学賞一等賞や未来科学大賞を受賞

 以上の優れた成果を受けて潘建偉は2015年に、中国科学技術大学の後輩研究者らと共に国家自然科学一等賞の受賞者となった。受賞理由は「多光子もつれと干渉の測定(多光子纠缠及干涉度量)」であった。

 さらに潘建偉は2017年に、未来科学大賞の物質科学賞を受賞した。
 未来科学大賞は、香港を拠点とする未来科学賞財団が中国における優れた業績を表彰することを目的として2016年に創設した賞であり、生命科学、物質科学、数学・計算機科学の3分野である。

残念ながら、恩師と同時のノーベル賞受賞はならず

 中国の科学界は、潘建偉が恩師ツァイリンガー教授と一緒にノーベル物理学賞を受賞することを強く待ち望んでいた。

 しかし2022年、アントン・ツァイリンガー教授ら3名がノーベル物理学賞を受賞したが、その中には残念ながら潘建偉の名前はなかった。

 近年の科学研究は多くのテーマに分岐しており、特定のテーマでノーベル賞受賞が続くことはまずない。従って潘建偉の同賞受賞が大きく遠のいたことは間違いなく、中国科学界は大きな失望を味わうことになった。

二番煎じから脱却

 しかし、潘建偉が切り開いてきた研究開発の道は、中国の科学技術進展へ大きな模範を示したと考えられる。

 中国では、鄧小平により改革開放政策が開始され、これに伴う経済発展によって科学技術を急速に発展してきたが、これまでは欧米などの先導的な研究を受けての二番煎じ的な研究が多かったことは事実である。

 しかし潘建偉のこれまでの業績は、オーストリアに留学しツァイリンガー教授の指導を仰いだとは言え、その後の研究開発の積み重ねは従来の二番煎じではなく、欧米や日本などとともにトップグループに位置して数々の業績を積み重ねており、画期的なものである。

 したがって、ノーベル賞に届かなかったとしても失望することは何もない。さらに今後、量子通信や量子コンピュータの応用や実用化で画期的な成果を挙げることにより、潘建偉のノーベル賞受賞は十分にあり得る。

 潘建偉が、これまで通り量子科学の国際的な発展に向けての努力を継続・強化することを期待したい。

参考資料

・中国科学技術大学HP 常务副校长 潘建伟 https://www.ustc.edu.cn/info/1007/6940.htm
・九三学社HP 九三学社中央副主席 潘建伟 http://www.93.gov.cn/bsjs-ldcy-zxfzx-pjwfzx/index.html
・JWPan,DBouwmeester,MDaniell,HWeinfurter,AZeilinger,Experimental Test of Quantum Nonlocality in Three-Photon Greenberger-Horne-Zeilinger Entanglement,Nature, 2000, 403: 515.
・ZZhao, YAChen, ANZhang, TYang,HBriegel, JW Pan, Experimental Demonstration of Five-photon Entanglement and Open-destination Quantum Teleportation, Nature, 2004,  430:54.
・Han-Sen Zhong, …, Jian-Wei Pan, Quantum computational advantage using photons, Science, 18 Dec 2020, Vol. 370, Issue 6523,  pp.1460-1463
・科技部HP  人民网:“多光子纠缠及干涉度量”获2015年度国家自然科学奖一等奖
https://www.most.gov.cn/ztzl/gjkxjsjldh/jldh2015/jldh15mtjj/201601/t20160108_123402.html
・未来科学大賞HP 2017 物质科学奖 获奖人 潘建伟 http://www.futureprize.org/cn/laureates/detail/4.html