はじめに

 呉文俊(Wu Wenjun、吴文俊、1919年~2017年)は、代数トポロジーの研究で成果を挙げた数学者であり、ウー類(Wu classes)やウーの公式にその名を残している。

呉文俊の写真
呉文俊 百度HPより引用

生い立ちと教育

 呉文俊(Wu Wenjun、吴文俊)は、辛亥革命後の1919年に、四人兄弟の長男として上海に生まれた。民主思想の持ち主であった父親に薫陶を受けて育ち、地元の小学校へ通った。

 呉文俊が12歳となった1932年に第一次上海事変(中国では「一·二八事變」と呼称)が起き、上海共同租界周辺で日中両軍が衝突した。呉文俊は身の危険を避けるため、浙江省の嘉興に避難している。
 半年後に上海に戻った呉文俊は、地元の中学校(中高一貫校)に通った。中学校では物理が得意で成績も良かったため、大学で物理学科に進もうとしたが、当の物理の先生が「物理の成績が良い原因は君の数学の才能にあり、数学を専攻してこそ君の能力を発揮できる」と数学への道を進めた。このため呉文俊は、1936年に交通大学(現在の上海交通大学)数学科に入学した。

フランスへ留学

 呉文俊は、1940年に交通大学を卒業し、地元の中学校や大学などで数学を教えていたが、1946年に先輩数学者である陳省身の推薦を得て中央研究院数学研究所の研究員に採用された。

 呉文俊は、翌1947年にフランスに赴き、西部のストラスブール大学に留学した。1949年に博士号を取得した呉文俊は、パリに赴き、フランスCNRSの研究者となり、同僚であったルネ・フレデリック・トム(René Frédéric Thom、1923年~2002年)とトポロジー研究に取り組んだ。そして呉文俊は、彼の名を世界的にしたウー類(Wu classes)やウーの公式を発表した。

帰国し、中国数学界を牽引

 呉文俊は1951年に帰国し、北京大学の教授となり、翌1952年には中国科学院に新たに設置された数学研究所の研究員となった。

 新中国建国後、中国では「科学に向かって邁進(向科学進軍)」をスローガンとし科学技術振興の機運が高まり、1956年に中国の科学技術の振興に格段の功績のあった科学者3名に対し、「国家自然科学一等賞」を授与した。呉文俊は、同じ数学者の華羅庚やロケット科学者の銭学森と共に、同賞を受賞している。翌1957年には、中国科学者の栄誉である中国科学院の学部委員(現中国科学院院士)に当選している。

計算機科学と中国数学史

 非常に高い学識と経験を有する呉文俊であったが、文化大革命が始まると、迫害の対象となった。呉文俊は文革中の1971年に、北京市内の無線機製造工場で強制労働に従事した。そこでの経験から、今後計算機が科学技術や社会に大きな影響力があると考え、計算機科学の大きな関心を持ち、その理論化に邁進していった。そして、同僚や弟子たちの協力を得て、自動化理論やソフトウェアの開発に尽力した。

 また呉文俊は、計算機科学の研究中に古代中国数学からインスピレーションを得たことから、中国の数学史に関心を寄せることになり、その体系化を目指した。そして自ら編集責任者となって、秦代から現在までの中国科学史を全十巻にまとめている。

国家最高科学技術賞受賞

 呉文俊は、文革終了後の1985年から87年まで中国数学会の理事長を務め、1992年から94年まで中国科学院数理学部の主任を務めた。

 呉文俊は、2000年に国家最高科学技術賞を受賞した。国家最高科学技術賞は、2000年に設置された中国最高の科学技術賞であり、日本の文化勲章に近く、国家主席により授与される。呉文俊は、ハイブリッド米の父と呼ばれる袁隆平と共に、栄誉ある第一回目の受賞を果たしている。

 呉文俊は、その後も後進の指導に当たったが、2017年、98歳の誕生日を目前に死去した。 

参考資料

・澎湃新闻HP "首届国家最高科技奖得主、著名数学家吴文俊逝世,享年98岁" https://www.thepaper.cn/newsDetail_forward_1679596
・科学网HP "首届国家最高科技奖得主吴文俊院士逝世” https://news.sciencenet.cn/htmlnews/2017/5/375539.shtm
・吴文俊主編 「中国数学史大系」 全十巻  北京師範大学出版社