1.はじめに

 ゲノム科学を語る上で不可欠なのは、ゲノムを操作する技術であり、近年発展著しいのがゲノム編集技術である。

 ゲノム編集技術は、第一世代:ZFN(1996年)、第二世代:TALEN(2009年)、第三世代:CRISPR/Cas(2012年)と着実に発展を遂げたが、いずれも標的とする遺伝子の近傍に特定配列を見出してそこに結合する部分と、特定の部位でDNA配列を切断する部分の2つのドメインからなっており、この編集技術により正確でかつ容易に遺伝子操作ができることとなった。

 ゲノム編集技術は、現在の世界最先端技術であり、さらに関連する資材が安価で誰にでも簡単に扱えることから、中国内でも同技術を研究開発する研究者は多い。また、中国では実験動物が豊富であり、規制が特段厳しくないことから、ゲノム編集による実験動物の作出や利用も多く行われ、特にサルに関するゲノム編集は同国で行われたものが世界の大部分を占めているとされている。

 こららについて、実例を挙げつつ中国のゲノム編集研究の現状を紹介したい。

2.世界初のヒト受精卵改変(中山大学の例)

(1)研究の内容

 2015年4月、広東省の広州市にある中山大学の研究者らが、Protein & Cell誌に、ゲノム編集技術によりヒトの受精卵を改変した旨の論文を発表した。

中山大学の正門
中山大学の写真

 同研究は、β-サラセミアという血液疾患の原因となる変異のあるβグロビン遺伝子を除去して、正常な遺伝子を導入したというものだった。彼らは研究材料として、生殖補助医療の過程で生じた受精卵を用いていた。それは普通の受精卵と違い、2つの精子による受精によってできたものであり、染色体数が通常の体細胞の1.5倍になっているため、本来胎児にまでは成長できないものだった。

 それにもかかわらず、同研究の実施の是非を巡り、生命倫理面や安全面から、世界に大きな反響を引き起こした。
 まず指摘されたのは、同研究でのゲノム編集技術の未熟さである。
 さらに、その当時、世界の約40の国々で、こうしたヒトの生殖系(精子・卵・胚)での遺伝子研究については法律で禁止するか、又は実質的にできなくしており、特に欧州では22か国中15か国が生殖系の改変を禁止していた。それにもかかわらず、中国でこのような規制が無いことから、この研究を実施されてしまったのである。
 また、同研究によりできた胚は、目的の場所に遺伝子が置換されていなかったり、予期せぬ変異が起きていたりしたことも分かった。

(2)国際的な検討による条件付き容認

 2015年4月の発表を受け、米国では、NIHの組換えDNA諮問委員会で、ヒト生殖系の改変を伴う研究については、研究提案は受け付けない意向を示した。また同年5月、ホワイトハウスは「ヒト受精卵の遺伝子改変については将来世代への影響が不透明であり、行うべきでない」との見解を発表した。

 一方、2015年12月、米国科学アカデミー(NAS)の主催のもと、各国の関係者を集めて「ヒトのゲノム編集に関する第1回国際サミット」が開催された。
 同会合では、「2つの条件(①安全性・有効性の実証 ②プロセスの妥当性に関する幅広い社会的合意)が満たされるまでは、ヒトの精子・卵子・胚等の生殖細胞を対象とするゲノム編集の臨床応用は無責任である」とされたが、「妊娠に用いない基礎研究や非臨床研究は一定の条件下で進められるべき」とされた。
 これにより、ゲノム編集を生殖細胞に用いた研究は、全否定ではなく部分的にお墨付きをもらった格好となり、その後、いくつかの国で同様の研究が認可されたり計画されたりするようになった。

(3)各国の追従

 英国のFrancis Crick研究所の研究者らは、CRISPR/Cas9を用いて受精卵のゲノムの修飾を行うことについて、2016年2月、審査機関であるヒト受精・胚研究認可局(HFEA)から承認を得た。
 同研究は胚の発生後数日間の主要遺伝子の役割をより理解することを目指すものだった。

 スウェーデンのKarolinska研究所の研究者らは血液疾患の治療研究のためヒト胚の遺伝子編集を目指した。

 また、米国科学・医学アカデミーはゲノム編集に関する専門家からなる会議「ヒトのゲノム編集に関する科学的・医学的・倫理的考察のための委員会」を2016年4月に開催し、適切な研究の在り方について検討を開始した。
 その結果は2017年2月に「ヒトのゲノム編集:科学・倫理・ガバナンス」という報告書として発表された。同報告書では、ゲノム編集ベビーに関しては、合理的な代替の選択肢がない深刻な疾患や病状を防ぐという目的に限定する等、一定の条件の下で許されるとした。
 なお、米国FDAはヒト胚を用いた次世代に遺伝するゲノム編集研究の公的資金での審査を認めておらず、研究は事実上禁止になっている。したがって、この報告書は、将来的にかかる審査が認められた場合でも、一定の要件を満たさぬ限り臨床研究は行われるべきではないとした。

3.  中国におけるヒト受精卵改変研究の進展(広州医科大学の例)

(1)研究の内容

 一方中国では、2例目の研究成果が発表された。

 2016年4月、Assisted Reproduction and Genetics誌に、やはり広東省広州市にある広州医科大学の研究者らの論文が掲載された。
 同論文は、免疫細胞で働くCCR5という遺伝子に変異を導入した上で、ゲノム編集技術であるCRISPR/Cas9技術によりヒト胚に導入し、それによりHIVの細胞への感染・侵入を防ぐというものだった。87人の患者から提供された213個の受精胚(余分な染色体をもち胚から成長できない)を用い、作出後3日目に廃棄した。この結果26個のヒト胚のうち4個に変異が導入されたことが分かった。この2例目についても、もともと用いた胚は、たとえ育てても出生につながらないもので構造的に安全対策が取られていた。また、結果的には成功率は低かった。

 2017年になって、同じく広州医科大学の研究者は、今度は出生可能な卵を用いて研究した成果を発表した。遺伝病を有する欠陥遺伝子をCRISPR/Cas9を用いて修復するものだった。その結果、用いた6つの胚のうち、3つの胚で一定の成功を収めた。具体的には1つの胚では全ての細胞の遺伝子が修復され、2つの胚では部分的に修復されていた。ただこれらの胚も、体外で取り扱われるだけで出生につながるものではなかった。

(2)各国の反応

 2016年の時点で、世界の40の国々でヒトの生殖系(精子・卵・胚)での遺伝子研究が法律で禁止されるか、実質的にできなくされていた。中国はそのような法律はないが、2003年以来、ガイドラインにより、(改変も含め)ヒト胚の研究は許されるが、改変されたヒト胚を繁殖のため着床することは禁じられていた。
このため中山大学の研究では、材料として2つの精子の受精によってできた受精卵を用いて、胎児まで成長できなくしていた。彼らとしてはこれにより倫理的に許されると考えたと思われる。当然同国内のガイドラインは守ったことになり、機関内委員会でも承認されている。そして、実際には上記国際的検討により、ゲノム編集を生殖細胞に用いた研究は全否定でなく、一定のお墨付きをもらった格好となった。
 最初の中山大学の研究成果に対しわき上がったさまざまな議論と比べ、広州医科大学の2例目、3例目への反応はあまりなかった。既成事実としてどんどん研究が推進され、批判は結局は吸収されてしまった。そうして中国のゲノム編集による胚の改変は順調に症例を重ね、経験を積んできたのである。実験を行えば、成功にせよ失敗にせよ何らかの成果が出ることは想定され、論文掲載に至ることは容易に想定された。このように倫理的問題で他国が躊躇しているものを先んじて行ってみるところに、中国人のしたたかさが見て取れなくもない。
 一方で、このような研究を率先して行い、結果を発表することで他国での問題点の検討を早め、結果的に世界全体の研究を促進することにつながった。中国はその意味で世界に貢献しているという皮肉な見方もできるかもしれない。

4. ゲノム編集用の新たな酵素の発見(河北科技大学の例)

(1)事実関係

 河北省石家庄市にある河北科技大学のハン博士らは、2016年5月、CRISPRに代わるNgAgoという新たな酵素が哺乳類のゲノム編集に用いることができるとして、Nature Biotechnology誌に発表した。同誌によると、非常に正確に目的の遺伝子を編集でき、CRISPRのように読み違えるケースはほとんどなく、認識できる範囲も広く、用途が広がるとされており、脚光を浴びた。

 だが同技術について、他の研究室で十分な再現性が得られず、当該論文が捏造ではないかと物議を醸した。この状況に対応するため、ハン博士らは8月にネット上(Addgeneという遺伝子情報のレポジトリー)にその詳細なプロトコルを掲載した。
 しかし、同年11月、Protein & Cell誌とCell Research誌に、ハン博士らの論文を否定する旨の論文が掲載された。前者はうまくいかなかった再現実験をリスト化したものであり、後者はゼブラフィッシュでの実験結果を踏まえ、NgAgo技術は遺伝子の発現を抑えることはできるが編集はできないとするものだった。
 さらに、最初にハン博士らの論文を掲載したNature Biotechnology誌も不成功に終わった再現実験に関するレポートを掲載し、ハン博士らに不明な点を明らかにするよう求めた。

 2017年8月、ハン博士らはNature Biotechnology誌に声明を投稿し、自分自身も含め、研究コミュニティによる再現実験できない状態が続いたことを理由に、論文の取り下げを宣言した。
 河北科技大学では、ハン博士らの業績により2億2,400万元を拠出して遺伝子編集センターを設立する予定だったが、同計画は暗礁に乗り上げた。また、ノボザイム社 は、河北科技大学に特許使用料を支払い、同技術を用いた酵素製造を行う意向だったが、同様に頓挫したようである。

(2)本件に関する考察

 これまでゲノム編集技術の主要な発明は米国の機関によってなされてきており、とりわけ最も有用なCRISPR/Cas9の特許は同国Broad研とCalifornia大学Berkeley校の研究者らが激しい主導権争いを演じてきた。
 本技術は生命科学研究には不可欠な技術となり、個々の研究者がキットを用いて容易に利用できることから、市場が拡大している。NgAgoはその寡占状態に風穴を開け、シェアを大きく変えうる存在になる可能性があった。

 こうした新技術の開発を中国の研究者が行ったことは注目に値する。同国の研究は一般的に米国等の研究の追随であり、実験系や使用動物・組織・細胞等を変えたりというものが大部分だった。それゆえ、こうしたイノベーションが出てくることは同国の科学技術の進展を示すものといえるだろう。

 一方で、各種状況を踏まえるとハン博士らは意図的に不正を行おうとしたわけではなかったと考えられる。2018年9月に河北科技大学が主導で行われた本件の調査でも、ハンの発見には欠陥があるものの、ハンとハンのチームは科学界を欺くつもりはなかったと結論付けた。だが、彼らが競争の激しさから功を焦るあまり慎重に実験を繰り返すことなしに投稿したことも否めない。

 なお日本でも数年前に日本ゲノム学会が設立され、各種技術開発の発表は行われているものの、中国と同様、既に開発された技術の改良等が大部分で全くの新技術の発明はまだである。特許も海外に独占されている現在、ゲノム編集に係わる全く新たな技術開発が期待される。

5. 中国における遺伝子治療の臨床実験の開始(四川大学と北京大学の例)

 この頃より、ゲノム編集技術を用いた遺伝子治療の臨床試験が始まった。

 四川大学の研究者らは、転移性の非小細胞肺がんの患者に対し、CRISPR/Cas9を用いて遺伝子治療の臨床試験を行うことについて、2016年7月に機関内審査委員会の認可を得、同年10月から同国の西中国病院で臨床試験を開始した。これはCRISPR/cas9技術による遺伝子治療としては世界でも初の試みになった。なお、CRISPR/Cas9以外のゲノム編集技術を用いた遺伝子治療としては、これ以前に米国においてHIVの患者に対する臨床試験が行われている。

 この試験は、同がん患者のうち、化学療法や放射線療法の効果がなかった者に対し、患者自身の免疫細胞を取り出してCRISPR/Cas9技術によりゲノム改変を行い、それを再び患者に投与するものだった。標的とする遺伝子はPD-1という、細胞の免疫反応を抑制するタンパク質をコードものであり、同タンパク質が機能することが、がん細胞が増殖する一因になっている。このためCRISPR/Cas9技術により当該遺伝子をノックアウトすることで、免疫細胞ががん細胞を攻撃するようになることを狙っていた。

 さらに2017年3月、北京大学の研究者らが膀胱がん、前立腺がん、腎臓がんに対し、臨床試験を開始する意向を表明している。この事例がその後どうなったか明確になっていないが、中国では2016年から国の5か年計画の中で「ゲノム編集」がクローズアップされており、それ以降、特に体性幹細胞でのゲノム編集の実施例は急増したのである。

参考資料

○中山大学関連
・P. Liang et. al. (2015) “CRISPR/Cas9-mediated gene editing in human tripronuclear zygotes”, Protein & Cell; Vol.6, 363-372
・河田孝雄(2015.04.24)「中国中山大、CRISPR/Cas9でヒト受精卵をゲノム編集した取り組みを論文発表」日経バイオテク
・E. Lanphier et.al. (2015), “Don’t edit the human germ line”, Nature Vol.519, 410-411
・J. Kaiser (2015), “Embryo engineering study splits scientific community”, Nature; Vol.348, 486-487
・S. Reardon (2015.12.03) “Gene-editing summit supports some research in human embryos”, Nature/News (https://www.nature.com/articles/nature.2015.18947)
・S. Reardon (2015) “Global summit reveals divergent views on human gene editing”, Nature; Vol.528, 173
・“Scientist can edit human embryos”, Science; Vol.351, 540-541
・E. Callaway, (2016), “Embryo-editing research gathers momentum”, Nature; Vol.532, 289-290
・J. Kaiser, (2017) “A yellow light for embryo editing”, Science; Vol.355, 675
・児玉聡 (2017.2.15) 「ゲノム編集の倫理:米国アカデミーの報告書を読む」Yahooニュース(https://news.yahoo.co.jp/byline/satoshikodama/20170215-00067739

○広州医科大学関連
・X. Kang et. al. (2016) “Introducing precise genetic modifications into human 3PN embryos by CRISPR/Cas-mediated genome editing”, Journal of Assisted Reproduction and Genetics, Vol.33, 581-588
・ “Embryos edited”, Nature; Vol.532, 152-153
・ “CRISPR in embryo”, Nature; Vol.543, 293

○河北科技大学関連
・F. Gao et. al. (2016) “DNA-guided genome editing using the Natronobacterium gregoryi Argonature” Nature Biotechnology, Vol. 34, 768-773
・S. Burgess et. al. (2016), “Questions about NgAgo”, Protein & Cell; Vol. 7(12), 913-915
・J. Qi et. al. (2016), “NgAgo-based fabp11a gene knockdown causes eye developmental defects in zebrafish”, Cell Research; Vol. 26, 1349-1352
・S. H. Lee (2017), “Failure to detect DNA-guided genome editing using Natronobacterium gregoryi Argonaute”, Nature Biotechnology; 35, 17-18
・F. Gao et. al. (2017) “Retraction: DNA-guided genome editing using the Natronobacterium gregoryi Argonature”
・D. Cyranoski (2018) “University clears NgAgo gene-editing study authors of deception”, nature.com

○四川大学関連
・D. Cyranoski (2016), “First trial of CRISPR in people”, Nature; Vol. 535, 476-477

○北京大学関連
・D. Cyranoski (2016), “CRISPR gene editing tested in a person”, Nature; Vol. 539, 479