はじめに
師昌緒(师昌绪)は、米国に留学した冶金学者で、中国科学院金属研究所で航空機用の耐熱合金、新型高性能合金等の開発を行い、国家最高科学技術賞を受賞した。

生い立ちと教育
師昌緒(师昌绪、Changxu Shi)は、1918年に河北省徐水(現在の保定市の一部)に生まれた。師昌緒の父は清朝の秀才(科挙の資格)を取った学者であり、教師として生計を立てていた。一家は四世代が同居する大所帯であった。
師昌緒は7歳で小学校に入り、いくつかの学校を転校の後1933年に中学校に入学し、卒業後に保定師範に入学した。
1937年に日中戦争が始まると、一家は河南省に疎開したため、師昌緒も移動して河南省の高級中学(日本の高校)に転校した。1940年に同校を卒業すると、師昌緒は徒歩で戦乱の中を西部に移動し、陝西省西安にあった西北工学院(現在の西北工業大学)の鉱山・冶金学科に入学した。
師昌緒は、1945年に西北工学院を卒業し、祁江電気化学製錬工場や鞍山鉄工所で技師として勤務した。
米国への留学
師昌緒は、工場で2年間勤務したことにより留学資格を得て、1948年に米国に赴いた。
米国では、中西部ミズーリ州にあるミズーリ工科大学に入学し、鉱山冶金学科で真空冶金を学んだ。
猛勉強により、師昌緒は1年後の1949年に修士学位を取得し、やはり中西部のインディアナ州にあるノートルダム大学冶金学科に転校した。
師昌緒は、1952年に博士学位を取得し、今度は東海岸のボストンにあるマサチューセッツ工科大学(MIT)に行き、モリス・コーエン(Morris Cohen、1911年~2005年)教授の下でポスドク研究を行った。モリス・コーエンは、著名な金属学者であり、1987年に第三回京都賞を受賞している。受賞理由は、「金属の相変態や諸性質に関する幅広い基礎的知見を与え、新しい材料の創出に根幹的貢献」であった。
帰国して金属研究所へ
師昌緒は1955年に帰国し、中国科学院金属研究所に勤務した。金属研究所は1953年に、旧満鉄鞍山製鉄所の再稼働を中心業務として遼寧省瀋陽に設置された中国科学院の直属研究機関であり、英国から帰国した李薫が初代所長を務めていた。

師昌緒は鞍山に赴き、金属研究所の現場部隊長として技術指導に当たった。
つづいて師昌緒が金属研究所で従事したのが、航空機材料などに使用される合金鋼の開発であった。1960 年代初頭、中国では耐熱合金の入手が東西冷戦の影響を受けて困難となり、航空機の製造に支障を来すこととなった。師昌緒は、入手困難となったニッケルベースの耐熱合金を鉄ベースの耐熱合金に置き換えるべく、研究開発を重ねた。苦難の末、師昌緒は真空製錬技術を利用して鉄ベースの耐熱合金開発に成功した。
さらに師昌緒は、戦闘機に用いられる中空タービンブレードの開発を進めた。米国は1961年に、この中空タービンブレードの鋳造技術の開発に成功し実用化したが、その技術は国家秘密となっていた。師昌緒は、100名に上る多くのスタッフを集め、4年後の1965年に鋳造技術により製造に成功し、中国の航空エンジン性能を新たなレベルに引き上げた。ちなみに、英国はこの中空タービンブレードの開発に、15年もかかったと言われている。
師昌緒は、1980年に金属研究所の第2代所長に任命されるとともに、中国科学院の院士に当選した。
その後1986年に、師昌緒は所長を退き名誉所長となり、1994年に中国工程院の院士にも当選した。
国家最高科学技術賞受賞
師昌緒は、2010年に国家最高科学技術賞を受賞した。国家最高科学技術賞は、2000年に設置された中国最高の科学技術賞であり、日本の文化勲章に近く、国家主席により授与される。師昌緒は、当時の国家主席であった胡錦濤より受賞している。

師昌緒は、2014年に北京で亡くなった。享年96歳であった。
長年勤務した金属研究所の「師昌緒先進材料イノベーションセンター」に、師昌緒の名が冠されている。
参考資料
・九三会中央宣伝部HP 师昌绪:“为祖国做贡献是人生第一要义”
http://www.93.gov.cn/zt/jgly/jgly_yxdx/289262.html
・京都賞HP モーリス・コーエン
https://www.kyotoprize.org/laureates/morris_cohen/