はじめに
武漢ウィルス研究所(武汉病毒研究所)は、湖北省武漢市にある中国科学院の附属研究機関である。
ウイルス学の基礎と関連研究を行う総合研究機関であり、高病原性ウイルスなどの新興感染症の科学的解明・予防・制御研究を行っている。
中国科学院傘下の他の機関と比較すると、規模、研究開発力、研究成果などでそれほどレベルが高くないが、本HPでは華西地区(河南省、湖北省、湖南省)地区にある中国科学院の研究機関の代表として取り上げた。
2019年末に発生し、世界的なパンデミックとなった新型コロナウィルス感染症との関連性が取り沙汰されている研究機関である。
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1. 名称
○中国語表記:武汉病毒研究所 略称 武汉病毒所
○日本語表記:武漢ウィルス研究所
○英語表記:Wuhan Institute Virology 略称 WIV
2. 所在地
武漢ウィルス研究所本部の所在地は、湖北省武漢市である。
湖北省は、中国内陸部で中央に位置する省である。淡水湖として中国で2番目に大きい洞庭湖の北にあるため、「湖北」という名称がつけられた。長江の中流にあり、亜熱帯に位置し、温暖湿潤気候に属する。冬季は乾燥低湿、夏季は多雨高湿である。
現在の湖北省の人口は約5,800万人(中国第10位)、経済規模はGDPで約7,500億ドル(中国第8位)である。長江の広大な沖積平野を利用した農業や多数の河川・湖沼による漁業が盛んである。また湖北省は中国の工業基地の1つで、鉄鋼、自動車、造船などの大規模な製造業会社や工場がある。
武漢市は湖北省の省都であり、長江と支流の漢江の合流地点に位置し、人口は約1,200万人で、湖北省では最も多い。
清代までは武昌が中心都市であり、その近辺に漢陽、漢口が発展し、武漢三鎮と呼ばれていた。清末の1911年10月に、武昌で武昌起義(武昌蜂起)と呼ばれる兵士たちの反乱が発生し、これが辛亥革命の幕開けとなった。国民政府の時代に、3つの地域が合体して武漢と呼ばれるようになった。
3. 沿革
(1)武漢微生物研究室
中国科学院は1956年に、武漢大学及び華中農学院(現在の華中農業大学)と共同で、湖北省武漢市に武漢微生物研究室を設置した。研究分野は、ウィルス、土壌微生物、植物ウィルスなどであった。
同研究室は1961年に中国科学院中南微生物研究所と改名し、さらに1962年に武漢微生物研究所と改名した。
(2)文革中に湖北省に移管
文化大革命が始まると、中国科学院傘下の多くの研究所が他の組織や地方政府に移管されたが、この武漢微生物研究所も湖北省に移管されて湖北微生物研究所となった。
(3)中国科学院に戻り、武漢ウィルス研究所に
文化大革命が終了すると、他の組織や地方政府に移管されていた研究機関が中国科学院に戻ったが、湖北微生物研究所も中国科学院の直轄研究所に戻り、名称を武漢ウィルス研究所として再発足し、現在まで続いている。
4. 組織の概要
(1)研究分野
武漢ウィルス研究所は、ウイルス学の基礎と関連研究を専門とする総合研究機関であり、生命、健康、生物安全における国家ニーズに応え、高病原性ウイルスなどの新興感染症の科学的解明・予防・制御の研究を行っている。
(2)研究組織
①国家級の研究室・実験室
・ウィルス学国家重点実験室(病毒学国家重点实验室) 武漢大学と共同設置。後述する。
②中国科学院級研究室・実験室
・中国科学院農業環境微生物学重点実験室(中国科学院农业环境微生物学重点实验室)
③国際的な実験室
・中国・オランダ・フランス無脊椎動物ウイルス学連合開放実験室(中-荷-法无脊椎动物病毒学联合开放实验室)
④内部の研究室
・病原体研究センター(病原学研究中心)
・分子ウイルス研究センター(分子病毒研究中心)
・抗ウイルス研究センター(抗病毒研究中心)
(3)研究所の幹部
武漢ウィルス研究所の幹部は、所長、中国共産党委員会(党委)書記、副所長、副書記である。大学などでは、党委書記の方が学長より強い権限を有しているが、中国科学院の付属研究所の場合には所長が最高責任者の場合が多い。
①王延軼・所長
王延軼(王延轶)武漢ウィルス研究所所長は、1981年に陝西省西安市で生まれた女性研究者である。2004年に北京大学生命科学院で学士の学位を取得した後、米国コロラド大学医学部に留学して2006年に修士学位を取得した。その後帰国し、2010年に武漢大学で博士学位を取得した。その後、武漢大学の副教授となった後、2012年に武漢ウィルス研究所に移り、2015年に同研究所の副所長となった。2018年からは同研究所所長を務めている。専門は、ウイルスと宿主の間の相互作用メカニズムである。
②肖庚富・党委書記兼副所長
肖庚富・武漢ウィルス研究所党委書記は、副所長も兼務しており、武漢ウィルス研究所のナンバーツゥである。肖庚富は、1966年に湖北省で生まれ、武漢大学で博士の学位を取得した。2018年から武漢ウィルス研究所党委書記兼副所長を務めている。専門分野は、微生物学、ウィルス学である。
5. 研究所の規模
(1)職員数
2021年現在の職員総数は247名で、中国科学院の中では小さい規模であり、30位までのランキングには入っていない(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。247名の内訳は、研究職員が210名(85%)、技術職員(中国語で工員)が3名(1%)、事務職員が34名(14%)である。
(2)予算
武漢ウィルス研究所の2021年予算額は4億4,007万元で、中国科学院の中で30位までのランキングには入っていない(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。4億4,007万元の内訳は、政府の交付金が1億7,338万元(39%)、NSFCや研究プロジェクト資金が2億5,745万元(59%)、技術収入が287万元(1%)、その他が637万元(1%)となっている。
(3)研究生
武漢ウィルス研究所の2021年現在の研究生総数は323名で、中国科学院の中で30位までのランキングには入っていない(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。323名の内訳は、修士課程の学生が144名、博士課程の学生が179名である。
6. 研究開発力
(1)国家級実験室など
中国政府は、国内にある大学や研究所を世界レベルの研究室とする施策を講じている。この施策の中で最も重要と考えられる国家研究センターと国家重点実験室であり、中国科学院の多くの研究機関に設置されている(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。上記組織の項でも述べたが、武漢ウィルス研究所は1つの国家重点実験室を有している。
・ウィルス学国家重点実験室(病毒学国家重点实验室):武漢ウィルス研究所と武漢大学の共建による国家重点実験室である。2004年に国の認可を受け、2005年から研究を開始した。主要な新興感染症を引き起こすウイルス(コロナウイルス、肝炎ウイルス、インフルエンザウイルス、ヘルペスウイルス、HIVなど)に焦点を当て、ウイルス感染、免疫、病因の分子機構を解明するとともに、ウイルス性疾患の診断、予防、治療のための研究を行っている。2021年現在で、正規研究員が29名、客員研究員が18名、研究生としてポスドク29名、博士学生79名、修士学生64名である。
(2)大型研究開発施設
中国科学院は、同院や他の研究機関の研究者の利用に供するため大型の研究開発施設を有している。大型共用施設は、専用研究施設、共用実験施設、公益科学技術施設の3つのカテゴリーがある(中国科学院内の設置状況詳細はこちら参照)。
武漢ウィルス研究所は、この大型共用施設・共用実験施設として「武漢国家生物安全実験室(武汉国家生物安全实验室)」を設置・運営している。武漢国家生物安全実験室は、武漢P4研究所とも呼ばれ、中国とフランスの公衆衛生分野における最も重要な協力プロジェクトの1つである。 より詳細には、下記特記事項で述べる。
(3)NSFC面上項目獲得額
国家自然科学基金委員会(NSFC)の一般プログラム(面上項目、general program)は、日本の科研費に近く主として基礎研究分野に配分されており、中国の研究者にとって大変有用である。武漢ウィルス研究所研究所のNSFCの獲得資金額は、中国科学院の中で20位までのランキングには入っていない(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。
7. 研究成果
(1)Nature Index
科学雑誌のNatureは、自然科学系のトップランクの学術誌に掲載された論文を研究機関別にカウントしたNature Indexを公表している。Nature Index2022によれば、武漢ウィルス研究所は中国科学院の中で20位までのランキングには入っていない(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。
(2)SCI論文
上記のNature Indexはトップレベルの論文での比較であり、より多くの論文での比較も重要である。しかし、中国科学院は各研究所ごとの論文数比較を出来るだけ避け、中国科学院全体での比較を推奨している。このため、SCI論文などで研究所ごとの比較一覧はない。
(3)特許出願数
2021年の武漢ウィルス研究所の特許出願数は29件であり、中国科学院内で下位に位置している(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。
(4)成果の移転収入
2021年の武漢ウィルス研究所の研究成果の移転収入は、中国科学院内でランキング外である(他の研究所との比較の詳細はこちら参照)。
(5)両院院士数
中国の研究者にとって、中国科学院の院士あるいは中国工程院の院士となることは生涯をかけての夢となっている。2025年1月時点で武漢ウィルス研究所に所属する両院の院士はいない(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。
8. 特記事項
(1)武漢生物安全国家実験室
武漢国家生物安全実験室は、武漢ウィルス研究所に設置された施設であり、BSL(バイオセーフティレベル)4(P4とも呼ばれる)という最高危険レベルの感染症に対応する研究環境を提供するものである。2003年7月に同実験室の建設が開始され、2015年に完成した。
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SARSや新型コロナウィルスによるパンデミックを経験し、また鳥インフルエンザが後を絶たない中国において、感染症や伝染病に関する研究は非常に重要だと認識されている。そこで、危険性の高いウィルス研究を実施するための全国共同利用施設として、中国科学院武漢ウィルス研究所内に設置している。
この実験室は、フランスのリヨンP4実験室の技術と設備を導入しており、中国とフランスが共同で設計を行った。
同実験室は4つの層から成り、第1層は下水処理・配電設備、第2層は3つの細胞レベルの研究所、2つの動物研究所、1つの細菌培養保存室、第3層は空気分配ダクト、第4階はHVAC(暖房、換気、空調)機器と給排気施設である。研究のメインは第2層であり、3つの病原体研究を同時に実行でき、また中小規模の動物感染の病理学及び薬効評価を実施できるとともに、有毒種の保存機能を有する。枢要な実験エリアの壁はレーザー溶接され、耐食ステンレス鋼で接合されている。
この施設で研究する場合には、研究者は宇宙服に似た陽圧防護服で保護され、呼吸に必要な空気は呼吸用空気供給ステーションによって完全に制御されているため、研究者は潜在的に汚染された環境から完全に隔離され安全である。
同実験室は、エボラウイルスやその他の新しいウイルスを対象として検出システム、分子疫学、感染性病原体微生物学などに関する研究を実施している。
(2)新型コロナとの関連
2019年12月、武漢市内で未知のコロナウィルス(後にCOVID-19と命名)による肺炎患者が出たため、武漢ウィルス研究所が直ちに調査した結果、同ウィルスは同研究所の研究員が中国南西部のコウモリから発見したウィルスと極めて高い類似性があることを発見した。さらに、翌2020年2月に石正麗(石正丽、Zhengli Shi)同研究所研究員のチームが、このウィルスの遺伝子配列を特定し、Nature誌に投稿した。
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なお、この新型コロナウィルスに関連して、COVID-19が武漢市内から中国全体、さらには世界中のパンデミックの原因となったが、これは武漢ウィルス研究所が誤ってこのCOVID-19を拡散させたという説が米国や他の西側諸国で言及され、中国とこれら西側諸国との軋轢要因になっている。研究所内の施設に保管されていたウイルスが操作されたり、誤って外部に持ち出されたりしたことによって新型コロナウイルス・COVID-19の初期の流行が引き起こされ、そのことを複数の研究者らが共謀して隠蔽を図ったのではないかという疑惑である。
この疑惑に対して、WHOが各国の専門家を派遣して調査を行い、2021年2月、COVID-19の武漢ウィルス研究所からの漏洩については「極めて低い」としたが、起源や早期感染の可能性について専門家がそれ以前から予想していたことを裏付ける結果となった。
現在においても、米国を中心としてこの疑惑は言及され続けている。
(3)武漢市にある他の中国科学院研究所
以下に、湖北省武漢市内にある中国科学院の附属研究機関を簡単に述べる。
①武漢岩石土壌力学研究所
武漢岩石土壌力学研究所(武漢岩石土壌力学研究所、Institute of Rock and Soil Mechanics)は、岩石土壌力学の専門研究機関として1958年に設置された。同研究所は、水利・水力発電、エネルギー、資源、交通、市政、海洋、国防など、600以上の重要国土プロジェクトに関与し、多くの革新的な成果を収めている。全体の職員数は320名(2021年)であり、比較的小さな研究所である。
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②精密測量科学・技術イノベーション研究院
精密測量科学・技術イノベーション研究院(精密测量科学与技术创新研究院、Innovation Academy for Precision Measurement Science and Technology)は、2019年に中国科学院内の武漢物理・数学研究所と測量・地球物理研究所が整理・合併して出来た研究機関である。物理、地球科学、生物学、資源探査、測量、核物理、磁気共鳴などの研究を行っている。全体の職員数は481名(2021年)であり、中国科学院内では小さい方であるが、武漢市内にある研究所の中で最も大きい。
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③水生生物研究所
水生生物研究所(Institute of Hydrobiology)は、中国科学院創設の際に国民政府時代の遺産である中央研究院や北平研究院の施設・人員を接収し、附属の研究所とした際に出来た研究機関の一つである。元々の前身は、1930年に南京に設置された中央研究院自然歴史博物館である。1950年2月の水生生物研究所設置に際して、北京、南京、上海にあった施設を統合して上海に本部を置いた。1954年には、西部開発促進の一環として、上海から武漢に移転して現在に至っている。
同研究所は、中国国内の内陸水域の生命現象、生態環境保護、生物資源利用などの研究を行っており、全体の職員数は325名(2021年)である。
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④武漢植物園
武漢植物園(武汉植物园、Wuhan Botanical Garden)は、植物研究、種の保存などを目的として1956年に設置された。中国科学院は武漢植物園以外に、華南植物園(华南植物园、広東省広州市)およびシーサンバンナ熱帯植物園(西双版纳热带植物园、雲南省)という二つの植物園を有している。武漢植物園の職員数は252名(2021年)である。
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参考資料
・中国科学院統計年鑑2022 中国科学院発展企画局編
・中国科学院年鑑2022 中国科学院科学伝播局編
・中国科学院HP https://www.cas.cn/
・武漢ウィルス研究所HP https://whiov.cas.cn/
・ウィルス学国家重点実験室HP https://klv.whu.edu.cn/
・武漢岩石土壌力学研究所HP https://whrsm.cas.cn/
・精密測量科学・技術イノベーション研究院HP https://apm.cas.cn/
・水生生物研究所HP http://www.ihb.cas.cn/
・武漢植物園HP http://www.wbg.cas.cn/