はじめに

 貝時璋は、中国において発生生物学や細胞生物学などの近代的な生物学研究を推進した科学者である。107歳という長寿を全うし、創設時からの中国科学院院士であったことから、親しみを込めて「長寿院士」と呼ばれた。

貝時璋の写真
100歳時の貝時璋・生物物理研究所初代所長
生物科学研究所HPより引用

生い立ちと基礎教育

 貝時璋(贝时璋)は、1903年に浙江省鎮海(現在の浙江省寧波市の一区画)に生まれた。家は元々漁師を生業としていたが、貝時璋の父・貝慶揚(贝庆扬)は独学で読み書きなどを習得し、湖北省漢口(現在の武漢市)に出稼ぎに行き、小さな雑貨店を開業した。その後、ドイツ人が経営する商社の会計担当の職員となった。

 貝時璋は幼少期に、母親と共に鎮海で過ごし地元の小学校に通ったが、12歳となった1915年に父に呼び寄せられて漢口に行き、ドイツ人が経営していた徳華学校に入学した。「徳」はドイツを表す字である。この学校では、中国語や中国の歴史以外はドイツ人教師がドイツ語で教えた。ただ、ドイツが第一次世界大戦で敗北したため、同校は中国地方政府に引き継がれ漢口第一中学となった。

 貝時璋は15歳の時に、漢口の古本屋でエミール・フィッシャー(Hermann Emil Fischer、1852年~1919年)の「Eiweisskoerper(蛋白体)」という書籍を購入した。フィッシャーは有機化学の研究者で、糖やタンパク質の研究でも成果を挙げ、1902年にノーベル化学賞を受賞している。貝時璋にとってこの本は難解であったが、生命にとってタンパク質が極めて重要であることは理解でき、このことが将来の生物学者への道につながった。

ドイツへの留学

 貝時璋は、1919年に上海同済医工専門学校(後の同済大学)に入学した。同校もドイツが設立した学校であり、ドイツ人教師が主体であった。ドイツ語を習得していた貝時璋は、ドイツ文学科の4年生に飛び級入学し、1年後に医学予科に進んだ。

 貝時璋は、18歳となった1921年に同済医工専門学校を卒業した。生家の家計は裕福ではなかったが、ドイツに私費での留学を目指した。彼にとって幸運であったのは、第一次世界大戦でドイツが敗北し、その後ハイパーインフレが発生したことであった。それでも留学費用は高額であり、両親はあらゆるつてを頼って何とか資金を調達した。

 ドイツで貝時璋は、フライブルグ大学、ミュンヘン大学、チュービンゲン大学の動物学科などで学んだ。そして、チュービンゲン大学で線虫の研究を行い、1928年に同大学より博士学位を取得した。

帰国して浙江大学教授に

 貝時璋は博士学位取得後に帰国し、1930年には浙江大学の副教授となった。1934年には教授となり生物学科主任も兼務した。

 1937年7月に日中戦争が勃発すると、浙江大学は1939年12月には貴州省遵義市に疎開した。日本の敗戦に伴い日本軍は撤収し、浙江大学は1946年9月に元の浙江省杭州に戻った。貝時璋も貴州省の遵義から杭州に戻った。

 貝は1947年9月、中央研究院(当時)を代表して国際細胞学会会議に出席するためにスウェーデンに赴いたが、会議自体は他のメンバーに任せ、この間、ジョリオット・キュリー研究室を含むフランス、英国、オランダなどの欧州諸国の研究現場の視察を行った。

 中央研究院や北平研究院の資産を受け継いだ中国科学院が1949年に設置されると、貝時璋は中国科学院に生命科学を研究する拠点設置を目指して準備を進めた。1950年6月、上海に実験生物研究所が設置されると、浙江大学を辞して同研究所の所長兼研究員となった。

貝時璋の辞令
実験生物研究所長の辞令

 

北京実験生物研究所を経て生物物理研究所へ

 貝時璋は、上海の実験生物研究所の所長を務める傍ら、中央政府の生物学の顧問的な役割を担うようになっていく。
 1953年に、銭三強中国科学院副院長を団長とする代表団が3か月をかけてソ連各地を訪問した際、貝時璋もこの代表団に参加し、ソ連科学アカデミー傘下の研究所など98の研究機関や11の大学などを訪問し、東側諸国における最新の生物学の研究状況を視察した。
 1954年、中国科学院に学術秘書処が設置されると、貝時璋も生物担当として学術秘書の一員となった。処長は銭三強であった。この学術秘書処の大きな産物は、かつての中央研究院にあった院士制度の復活であり、これは1955年に中国科学院学部委員として立ち上げられた。この学部委員は後に中国科学院院士に発展する。貝時璋自らも、この初代の学部委員に当選している。

 中国科学院は、北京での貝時璋の仕事が増大したことにより上海にある実験生物研究所での研究業務に支障を来すことを恐れ、1954年に北京に実験生物学研究所の出先を設置し、そこに貝時璋の研究室を移動させた。そして、この出先が1957年に中国科学院の附属研究所となり、さらに1958年に現在も活動を続ける生物物理研究所となった。初代所長は貝時璋であり、その後文革期間を含めて、1983年まで25年間にわたり所長を務めている。

 1966年に始まった文化大革命では、貝時璋のいた中国科学院を直撃し様々な困難に遭遇したが、幸にも完全に失脚することなくまた身体的な危害に遭うことも免れた。
 文化大革命の暴虐時が終了し比較的穏やかとなった後、貝時璋は、1972年に米国へ、1975年にオーストリアとイタリアへ代表団を率いて訪問している。

 貝時璋は80歳となった1983年に、生物物理研究所の所長を退任し名誉所長となったが、引き続き研究現場に留まって中国の生命科学を牽引した。

 貝時璋は2009年に、北京で亡くなった。享年107歳であった。100歳を超えても頭脳明晰を保ち、中国の生命科学の行く末について意見を述べていたことから、「長寿院士(長生きの中国科学院院士)」と親しみを込めて呼ばれていた。

学術的業績

 貝時璋は、ドイツ留学中から亡くなるまで一貫して実験生物学の研究に従事した。

 ドイツ留学中には、線虫やアルテミスの生物学的細胞定数、再生、細胞の構造と分裂に関する研究を行った。

 帰国の後も、アルテミアの研究を続け、アルテミアの中間性転換中の細胞でリモデリング(再構築)を観察した。これをきっかけに、アルテミア、ニワトリ胚の初期発生、根粒菌、クラミジア・トラコマチスなどの細胞の再構築に関する研究を行って、細胞分裂以外で細胞が再構築されることを確認した。

 このような基礎的な研究を行うだけでなく、貝時璋は中華人民共和国建国後に国家を挙げて推進した両弾一星政策にも、積極的に関与し貢献した。
 中国の核実験は1964年に第一回目の核実験が行われたが、貝時璋はそれを契機としてマカクザルなどを用いた長期的低線量被曝研究を実施し、放射線影響の大きさを元に放射線安全基準の策定に貢献した。また、大気核実験による全国的な放射能バックグラウンド調査も実施している。
 さらに、宇宙開発にも積極的に関与し、細菌、動物細胞、ハエ、マウス、子犬などを搭載したロケットを開発・打ち上げ、生物の無重力状態による影響研究も行った。この様な基礎的研究は、後の有人宇宙飛行を通じ、宇宙生命科学や宇宙医学につながった。

 中国天文台は、貝時璋のこれらの功績を称え、1996年に発見した小惑星36015号を「貝時璋星」と命名している。

参考資料

・中国科学院生物物理研究所HP 贝时璋先生小传 https://ibp.cas.cn/kydw_157813/zgkxyys_157815/202012/t20201203_5807435.html 
・寧波科協HP 弘扬科学家精神│贝时璋: 真实科学家的科学人生 https://mp.weixin.qq.com/s?__biz=MzI2Njk5MTMwMA==&mid=2247515750&idx=3&sn=d3ccd8e00cd5ba01e929aaa0632b553b&chksm=eba32333e1decd04150b5d2c92f3526e7e4fb416ede2e436e5e7c172f93c1fe7d63bf57f28fb&scene=27
・贝时璋. 贝时璋文选. 杭州: 浙江科学技术出版社, 1992.