はじめに
ユーナン・ジャン (Yuh-Nung Jan、詹裕農、1947年~)カリフォルニア大学サンフランシスコ校教授は、台湾出身の神経生物学者であり、夫人で共同研究者であるリリー・ジャン (葉公杼)と共に、動物に共通の神経細胞活動を制御するカリウムイオンチャネルファミリーを分子レベルで特定した成果により、2011年にワイリー生物科学賞を受賞している。
生い立ちと基礎教育
ユーナン・ジャン(Yuh-Nung Jan、詹裕農、詹裕农)は、1947年に上海で生まれた。
ジャンの父親・詹腾荪は、大陸の内陸部で長江南岸に位置する江西省の裕福な家庭の出身であり、両親は詹腾荪を米国に留学させるつもりであった。ところが1937年に日中戦争が始まり、留学ができなくなったため、地元江西省の中正大学で学んだ。母の鄭美珠は安徽省出身で同じ中正大学で学んだ。
父・詹腾荪は、大学を卒業後国民党軍に参加して将校となり、日本軍と戦った。二人は、日中戦争の終了前に結婚した。日中戦争終了後、両親は上海に出て、そこでジャンが生まれたのである。
日中戦争終了後、国民党は共産党との戦いに敗れ、ジャンの両親は1949年に台湾の新竹に逃れた。台湾に逃れた後も、ジャンの父親は国民党軍の将校として働き、ジャンが生まれたときには最前線の金門島に配属されていた。
ジャンの母親は自ら働きに出るため、まだ4歳半で小学校の入学年齢に達していないにもかかわらず地元の小学校に入学させるよう懇願した。小学校側は試験的にジャンを入学させ、年上の子供たちについていけると判断し、入学を例外的に許可した。このため、ジャンは結果として1年飛び級したことになる。
ジャンの父は、その後金門島での軍務を終え、台湾の台北に戻って政府に勤務することになり、一家は台北に移転した。台北でジャンは「台湾省立台北建国中学」に入った。同校は、日本の統治時代の1898年に開校した台湾随一の名門校であり、戦前は台北第一中学(台北一中)と称していた。
同校の同級生として、ジャンはアンドリュー・チーチー・ヤオ(姚期智)に出会う。アンドリュー・チーチー・ヤオは、1946年に上海に生まれた数学者であり、米国で博士号を取得した後、1999年にチューリング賞、2021年に京都賞を受賞している。近年米国の職と国籍を棄てて、中国大陸に戻って清華大学教授に就任し、さらに2015年には中華人民共和国の国籍を取得している。
国立台湾大学でリリーと出会う
ユーナン・ジャンは、台北建国中学で当初それほど成績が良い方ではなく目立つ存在でもなかったが、生物と化学の先生やアンドリュー・チーチー・ヤオなど優れたクラスメートの感化を受けて、大学進学に向け猛勉強を開始した。その成果があって、台湾の大学共通入試試験で、全体約3万人の中でトップ10位以内に入ることができ、1963年に最難関の国立台湾大学理学部の物理学科に入学を許可された。ヤオも同学科に進んでいる。
国立台湾大学を1967年に卒業後、ジャンは台湾空軍の通信・電子担当の将校として、1年間の兵役に就いた。兵役の休暇の際、台湾大学の学生達とのハイキングに参加したが、そこで出会ったのが1年後輩(年齢は同じ)のリリー・ジャンであった。リリーとジャンは恋人となった。
ジャンとリリーは、リリーが国立台湾大学物理学科を卒業するのに合わせて米国留学を決意し、1968年秋にカリフォルニア工科大学(Caltech)に入学して、理論高エネルギー物理学で博士号取得を目指すこととなった。ちなみに、ジャンの級友であるアンドリュー・チーチー・ヤオは、同じ年にハーバード大学に留学している。
留学から3年後の1971年に、二人はCaltechのあるパサディナで結婚した。
物理学から生物学への転向
ユーナン・ジャンはリリーと共に、結婚前の1970年に専攻を物理学から生物学に変更した。
Caltechの大学院に留学した二人は、大学院で開催された研究会で、前年にノーベル生理学・医学賞を受賞したマックス・デルブリュック(Max Ludwig Henning Delbrück、1906年~1981年)教授の話を聞いて感動した。デルブリュックはドイツ・ベルリン生まれの科学者で、細菌のウイルス抵抗性は適応の結果によるものではなく突然変異によるものであることを示したことが評価され、ノーベル賞を受賞した。デルブリュックは、自らが学生時代に天体物理学や理論物理学を専攻した後生物学に転向したことに触れ、聴講した学生に物理学修得の基礎の上に生物学に進むことを奨励した。
デルブリュックの講話に感動した二人は、専門分野を生物学に変更し、同教授の研究室へ移った。
ジャンとリリーは1974年に、Caltechから博士号を取得した。その時には、二人の研究分野は違っており、卒業の際の論文も別々であった。
二人での協力の開始
二人が協力して同じ研究に取り組むきっかけとなったのは、ニューヨーク州ロングアイランドにあるコールドスプリングハーバー研究所で1974年夏に開かれたシンポジウムへの参加である。ここでは、3週間の間、毎日16時間にわたって休みなく研究や実験に励むことになり、その時のテーマである神経生物学に二人は魅了された。
夏のシンポジウムから帰り、二人はCaltechのシーモア・ベンザー(Seymour Benzer、1921年~2007年)教授の研究室でポスドクを開始するが、二人はそれ以来同じ研究室で協力して研究・実験し、論文を連名で出すことにした。ベンザー教授は、米国の分子生物学者であり、ショウジョウバエの行動突然変異体の研究で成果を挙げ、ガードナー国際賞、ラスカー賞などを受賞している。日本の研究者である堀田凱樹博士と共同で、視覚行動異常が光受容細胞の発生、分化の過程で遺伝子によって生ずることを明らかにしており、これによりベンザー教授は、2000年に日本学術振興会より第16回国際生物学賞を受賞した。
ジャンとリリーは、3年後の1977年にベンザー教授の研究室を出てボストンに向かい、ハーバード大学医学部のスティーブ・カフラー(Steve Kuffler)教授の研究室でポスドク研究者となった。
UCSFで独立した研究室を構える
ハーバード大学でのポスドク研究での成果を米国科学アカデミー紀要(PNAS)に発表したところ、米国内のいくつかの大学から研究職のオファーがきた。その中から、二人はカリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)のオファーを受け、1979年に再びカリフォルニア州に戻った。
さらにリリーとジャンの二人は、1984年にハワード・ヒューズ医学研究所のInvestigator Programに選ばれた。同研究所は、米国の実業家ハワード・ヒューズによって1953年に設立された非営利の医学研究機関であり、同研究所のInvestigator Programは、トップクラスの研究者に対し、大学等に在籍のまま同研究所の研究員として雇用し、最低5年間にわたり研究資金を提供するものである。
独立して研究室を持った二人が取り組んだのは、ニューロンの形態の多様性、樹状突起の発達、およびニューロン回路の形成を制御する基本メカニズムの解明であった。彼らのチームは、ショウジョウバエの末梢神経系の発達と機能を制御する遺伝子プログラムの発見を目指した。具体的には、樹状突起の発達を制御するメカニズム、感覚生理学 (特に機械的刺激に対する感覚)、樹状突起と軸索の変性と再生、およびハエの行動の基礎となる回路の解明であった。この研究結果を哺乳類の皮質ニューロンにまで広げ、将来的には、自閉症や統合失調症などの神経疾患の解明に役立つとも考えた。
この研究により、二人は2011年にワイリー生物科学賞を受賞した。受賞理由は、「動物に共通の神経細胞活動を制御するカリウムイオンチャネルファミリーを分子レベルで特定した功績(molecular identification of a founding member of a family of potassium ion channels that control nerve cell activity throughout the animal kingdom)」出会った。
ワイリー賞(Wiley Prize in Biomedical Sciences)は米国のワイリー財団が、基礎医学や臨床応用の研究成果を促進することを目的に、2002年以来毎年授与している生命医学の賞であり、これまでの受賞者45名のうち、15名が後にノーベル賞を受賞している。日本人では森和俊が2005年に、大隅良典が2016年にそれぞれ受賞した。
参考資料
・UCSHのHP The Jans' Autobiography & Lab History https://web.archive.org/web/20190502195445/http://physio.ucsf.edu/Jan/Autobiography.html
・WileyのHP https://www.wiley.com/en-us/foundation/prize/biomedical#accordion-3ac7718796-item-a08b8eefe4
・Vilcek Foundation HP Lily and Yuh-Nung Jan 2017 Vilcek Prize in Biomedical Science https://vilcek.org/prizes/prize-recipients/lily-and-yuh-nung-jan/