はじめに

 伍連徳は、清朝末期に英国領マラヤに生まれ、満州で発生したペストと戦い、中国系で初めてノーベル賞候補に推薦された。

伍連徳の肖像写真
伍連德 百度HPより引用

生い立ちと教育

 伍連徳(伍连德、Wu Lien-teh)は1879年に、英国の海峡植民地マラヤのペナンで、広東省出身の華僑・()祺学(きがく)の子として生まれた。ペナンは、マラッカ海峡に位置する交通の要衝であり、現在はマレーシアの都市となっている。

 伍連徳は7歳で、現地のアジア人子弟の教育を目的に英国国教会の寄付を得て1816年に設立された「ペナン自由学校(Penang Free School)」に入り、10年間英語などの基礎教育を受けた。

 1896年に、伍連徳は英国女王陛下の奨学金を得て、ケンブリッジ大学エマニュエル・カレッジに入学した後、1999年にロンドン市内パディントンにあるセントメアリーズ病院に入り基礎医学を学び、インターンとして臨床も行った。同病院での3年間の勤務の後、1902年に伍連徳はケンブリッジ大学から医学学士号を取得した。
 その後、リバプール熱帯医学校、ドイツ・ハレ大学、フランス・パスツール研究所などで臨床や基礎医学の経験を積み、1903年に破傷風菌に関する研究でケンブリッジ大学より医学博士号を取得した。

マレー半島に戻ったのち中国に赴き満州の肺ペストに対処

 医学博士号を取得した伍連徳は、マラヤに戻りクアラルンプールで1年間マラリアなどの研究をした後、1904年に故郷のペナンに戻って華僑のためのクリニックを開設した。

 当時の中国は清朝末期であり、この時期に政治の実権を握った袁世凱は、伍連徳の医学者・臨床医としての高い評判を聞いて、天津に設置された陸軍軍医学校の副校長への就任を要請した。伍連徳は袁世凱の要請を受け入れ、1908年に父の祖国である中国に赴き、以降数十年にわたって中国で活躍することになった。

 1910年冬、中国満州(現在の東北部)において極めて致死性の高い(致死率99.9%)伝染病が発生した。当初ハルビンを中心に発生した伝染病は、その後瞬く間に満州全体に広がり、満州とモンゴルで約6万人が犠牲になった。
 この事態を重く見た清朝政府は、伍連徳をハルビンに派遣し、事態の調査と対応に当たらせることとした。ハルビンに到着した伍連徳は、中国人と結婚した日本人女性が伝染病で危篤であるとの情報を得て、その自宅に急行した。女性は亡くなったが、伍連徳は伝染病の正体を調べるため当時中国では禁止されていた死体解剖を行い、血管、心臓、肺葉などから検体を抽出し顕微鏡で観察した結果、この伝染病がペストであることを同定した。これは中国で最初に記録された病理解剖であった。

 さらに、伍連徳は他の症例などを調査し、今回のペストはネズミやノミを介するペストではなく、飛沫により人から人へ感染する「肺ペスト」であることを突き止めた。飛沫感染による肺ペストと断定した伍連徳は、当時の満州でも入手可能であったガーゼを使用して厚手で簡単な縫製マスクを設計し、医療関係者や住民にその装着を勧めた。これは後に「ウー(伍)のマスク」と呼ばれ、現在のN-95マスクの原型となった。
 伍連徳は、同じく伝染病の調査と治療に当たっていたフランス人医師ジェラルド・メズニーに対し、このマスクの着用を勧めた。しかしメズニーは、伍連徳が年齢的にも若くかつ中国人であったことから、肺ペストであるとの伍連徳の主張を信じなかった。その後、顔を覆わず治療に当たっていたメズニーはペストに罹患し、数日のうちに死亡した。この話が広まると、医療関係者だけでなく住民の間にもマスク着用が拡がった。

 肺ペストに罹患し亡くなった人々の遺体の多くは路頭に放置されており、これにより他の人々に伝染する可能性があった。当時は火葬の習慣が一般的ではなかったため、伍連徳は清朝政府に働きかけ、清朝政府から火葬の命令を出させることに成功した。このような伍連徳の努力が実り、翌1911年3月には肺ペストによる死者はゼロとなった。

 このペスト終息を喜んだ清朝政府は、伍連徳に国際会議の開催を命じた。終息直後の1911年4月、満州の奉天(現在の遼寧省瀋陽)において、「奉天万国ペスト研究会」が開催され、伍連徳は同研究会の議長として会議を取り仕切った。主要国からペストや他の伝染病の専門家が出席し、日本からも北里柴三郎が参加している。また伍連徳は、このペストとの戦いを英語による論文にまとめ、ロンドンの学会に送付し、同論文は同年8月にランセット誌に掲載された。

辛亥革命後の中華民国での活躍

 1911年末に発生した辛亥革命により清朝政府は倒れ中華民国となったが、伍連徳は引き続き中国に留まり伝染病対策に当たった。

 1912年伍連徳は、満州の防疫管理所長に任命された。1919年から21年までの間、満州で流行したコレラの対処に当たった。対応には港湾での検疫が重要であったが、中国では1842年のアヘン戦争の敗北を受けた不平等条約である南京条約により、独自の検疫権が制限され諸外国による検疫の介入が常態化していた。
 伍連徳はこの状況を憂え、コレラが終熄した後も粘り強く政府に働きかけ、政府の外交交渉を促した。1930年に国際連盟の指導により漸く中国政府の港湾検疫権が確立し、当時海運の要であった上海に国家海港検疫管理局が設置され、初代の所長に伍連徳が就任した。

 また伍連徳は、中国の医学研究の振興を図るため、「中華医学会」の創立に尽力し、1916年から1920年まで同学会の第二代会長を務めた。また、同学会の機関誌であり研究論文の発表の場である、「中華医学雑誌」の創刊にも尽力した。
 さらに伍連徳は、1918年に「北京中央医院(現北京大学人民病院)」を、1926年に「ハルビン医学専門学校(現ハルビン医科大学)」をそれぞれ設立し、中国の医療体制の確立に大きく貢献した。

日本軍の横暴に遭遇

 1931年9月、満州事変の発端となる柳条湖事件(中国では918事変と呼ばれる)が発生したが、伍連徳は日本軍に協力することを潔しとせず、ハルビンを去ることとした。ハルビンから大連に向かう途中、伍連徳は日本軍からスパイとして逮捕され、瀋陽に拘留された。伍連徳は中国系ではあるが、英国の植民地であるペナン生まれであったことから、英国領事が日本軍と交渉し、幸にも釈放されて上海の国家海港検疫管理局に移った。

 1937年に日中戦争が始まると、上海も日本軍の占領するところとなった。このため、伍連徳はついに中国を離れ、故郷のマラヤに戻った。
 しかし、マラヤも日本軍の横暴から免れられる地ではなかった。1941年12月に太平洋戦争が勃発し、翌年1月にはマラヤ全域が日本軍によって占領されてしまった。中国を離れてマラヤに帰っていた伍連徳は、公職には就かず小さなクリニックで医師として働いていたので、直ちに日本軍に逮捕されることはなかった。
 ところが伍連徳は1943年に、マラヤで活動していた左翼ゲリラに捕まり、身代金を払ってジャングルで開放された。これを日本軍が咎め、左翼ゲリラに資金を与えたとの嫌疑で伍連徳を拘束し、厳しく追及した。幸いにも、伍連徳の患者の中にマラヤ駐在の有力な日本人会社員がいて、彼の助力により無事釈放された。

死後にノーベル賞推薦が判明

 第2次大戦が日本軍の敗戦で終了すると、マラヤは再び英国の直轄地に戻ったが、マレー系住民らの民族主義運動により1948年にマラヤ連邦が成立し、1957年に最終的に英国から独立した。伍連徳は、その後も生まれ故郷であるペナンで現役の医師として診察を続けたが、1960年に心臓麻痺で死去した。享年80歳であった。

 伍連徳が亡くなって50年近くたった2007年に、ノーベル財団は1935年のノーベル賞生理学・医学賞の受賞候補者を公表したが、その中で伍連徳が推薦されていたことが判明した。推薦理由は、肺ペストに関する研究であった。残念ながら、最終的に1935年のノーベル生理学・医学賞を受賞したのは、ドイツの発生学者であるハンス・シュペーマンであった。受賞を逸したものの、中国系の科学者への推薦は初めてであった。

参考資料

・Singapore Med J.   “Dr. Wu Lien-teh: modernising post-1911 China's public health service” https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4291938/   
・The Nobel Prize HP  “Nomination for Nobel Prize in Physiology or Medicine Year: 1935, Lien-Teh  https://www.nobelprize.org/nomination/archive/show.php?id=11153 
・北京大学公衆衛生学院HP 公卫人物伍连德:中国现代医学拓荒 http://sph.pku.edu.cn/info/1039/4658.htm