辛亥革命後、医学高等教育機関や科学研究機関が設立されたが、政治的な混乱や列強の帝国主義的な動きにより、中国のライフサイエンスは停滞した。

1. 庚款(こうかん)留学生制度

 庚款(こうかん)留学生制度が発足したのは、清朝末期の1910年であり、本格化したのが辛亥革命後の国民政府の時代である。 

 1900年の義和団事件後に、和平のために結ばれた北京議定書で、清朝政府は当時の国家予算の数倍にあたる賠償金の支払いを約束させられた。この賠償金の支払いが清朝政府を苦しめることになり、米国は1909年に中国人学生の米国への留学費用に充てることを条件に賠償金の一部を中国に返還することとした。これが「庚款(こうかん)留学生」の制度である。清政府は直ちに留学生の募集と選抜を実施し、1910年から米国に留学生の派遣を開始した。直後の1911年に起きた辛亥革命で混乱するも、新政府により庚款留学生制度が再開され、以降多くの人材が米国に渡った。
 ライフサイエンス関係でも多くの若者が米国に留学し、最先端の知識を得て中国に帰国して、中国でのライフサイエンスの発展の種を撒いていった。

 米国に渡ったライフサイエンス分野の著名な研究者を紹介したい。
 まず植物学では、陳煥鏞(1890年~1971年)、胡先驌(1894年~1968年)、湯佩松(1903年~2001年)らがいる。いずれも、植物分類学などを中国に導入し、植物標本や植物園を設置し、その後の植物学や農学の発展に寄与している。動物学では、秉志(1889年~1965年)が有名である。
 医学関係では、細菌学・微生物学の湯飛凡(1897年~1958年)、内科・消化器内科などに近代西洋医学を導入した張孝騫(1897年~1987年)、初期の女性医師として著名な林巧稚(1901年~1983年)らが有名である。
 農学関係では、林学の韓安(1883年~1961年)、小麦の育種研究の金善宝(1895年~1997年)、植物病理学の涂治(1901年~1976年)らが有名である。
 これらの研究者の米国での留学先を示すと、陳煥鏞(ハーバード大学)、胡先驌(カリフォルニア大学及びハーバード大学)、湯佩松(ジョンズ・ホプキンス大学)、秉志(コーネル大学)、湯飛凡(ハーバード大学)、張孝騫(ジョンズ・ホプキンス大学)、林巧稚(シカゴ大学)、韓安(コーネル大学)、金善宝(コーネル大学及びミネソタ大学)、涂治(ミネソタ大学)であった。

2. 医学高等教育機関の設立

 中国において西洋医学の教育が本格化したのは、清朝末期から辛亥革命を経た中華民国の時代である。西欧列強は、キリスト教の普及や植民地支配などを目的として、支配下にある地域に西洋医学による病院を建てていった。そしてその病院で西洋医学の医者を育てるべく教育を開始した。清朝や国民政府が、これに倣って西洋医学を中心とした専門学校を設置し、現在の北京大学や浙江大学などの医学部の原型となった。

 これと並行して米国の慈善団体などが資金を出し、米国本土の大学と連携して医学の高等教育を専門とする学校を設置した。その代表的な例が、湘雅医学専門学校と北京協和医学院である。

 まず湘雅医学専門学校であるが、1901年に米国イェール大学の卒業生を中心に雅礼協会(Yale-China Association)が設立され、この協会の援助により1906年に雅礼医院(Yale Hospital)が湖南省長沙に設置された。この雅礼医院をベースに西洋医学の学校設立を目指したのが、顔福慶という医師・医学教育家である。顔福慶は1882年に上海で生まれ、上海にあった米国聖公会のミッション系大学・聖ヨハネ大学で医学の基礎を学んだ後、1906年に米国のイェール大学に留学した。1909年に医学博士号を取得した後帰国して、雅礼医院に外科医として勤務した。母国の医学教育の実情を憂えた顔福慶は、湖南省政府と母校イェール大学に強く働きかけ、1914年に両者の協力を得て湘雅医学専門学校の設立に成功し、初代の学長に就任した。

顔福慶の写真
顔福慶 百度HPより引用


 湘雅医学専門学校は、8年制の医学校であり、当時の中国高等教育機関で出来なかった博士号の授与が可能となった。湘雅医学専門学校はその後、後述する北京協和医学院とともに中国の西洋医学教育を牽引し、「南の湘雅、北の協和」と呼ばれることになった。現在は、中南大学の湘雅医学院となって、引き続き優秀な医師・医学者の育成に当たっている。

湘雅医学院
現在の湘雅医学院 

 一方の北京協和医学院であるが、母体は1906年に米英のキリスト教教会が北京に設立した協和医学堂である。
 米国資産家のロックフェラーは中国の西洋医学教育の振興に関心を示し、1909年頃から有識者を中国本土に派遣して実情を調査した。1914年にロックフェラーは米国で財団を設立し、その初期の事業の一つとして北京の協和医学堂を買収し、これを母体としてより充実した西洋医学教育の実践を目指した。1915年にロックフェラー財団による買収が完了し、協和医学堂は「北京協和医学院、Peking Union Medical College」と改称された。ロックフェラー財団は、多額の追加資金を投じて校舎建設や教師招聘などを行い、1919年に同医学院は湘雅医学専門学校と同様、8年制の医学校として学生募集を開始するとともに、1921年に臨床機関として「北京協和医院」を開設した。

 その後、日本軍や中国共産党に接収されたりしたが、現在も北京協和医学院と北京協和医院は存続しており、教育と臨床を行っている。

北京協和医学院の正門
現在の北京協和医学院の正門

3. 中央研究院と北平研究院の設置

 1911年に孫文らによる辛亥革命が成功して中華民国が成立したが、その後、袁世凱や軍閥の台頭などの混乱期が長く続いた。ようやく1925年に、国民党による国民政府が成立し、政治的に比較的安定な時代が到来した。
 清末から辛亥革命以降に作られた大学は、混乱期における活動の停滞を経て、欧米や日本との交流を再開し、研究力、教育力の向上を目指した。
 1928年に国民政府は、学術研究振興の重要さに鑑み「中央研究院」を政府直属の最高研究機関として設立し、傘下に物理、化学、工学、地質、天文、動物、植物などの14研究所を南京や上海に設置した。さらに1929年に国民政府は、北平(現在の北京)地域に依拠した研究機関として、北平大学(現在の北京大学)の研究機構を一部統合整理して「北平研究院」を設立し、物理、化学、ラジウム、薬物、生理、動物、植物などの9つの研究所を傘下に設けた。
 中央研究院や北平研究院では、ライフサイエンス研究は動物学や植物学が中心であり、それに加えて生理学や薬学などの研究が実施された。

4. 日本の侵略と国共内戦

 国民政府の樹立と前後して、日本による中国侵略が激しさを増していった。日本軍は1931年には柳条湖事件(中国では918事変と呼ぶ)を起こし、1932年3月には「満州国」の建国を宣言した。さらに1937年、北京郊外において盧溝橋事件が起こり、日中戦争が勃発した。日本軍は多数の都市を占領し、国民政府の首都は南京から西部の重慶に移転した。

 この日本軍の侵略により、北京、上海、南京など大陸東部にあった大学や中央研究院、北平研究院などは、大陸西部への疎開を余儀なくされた。

 1945年8月に日本軍が降伏し、大学や研究機関は元の活動地域に徐々に戻っていった。その後、国民党軍と中国共産党の人民解放軍による内戦が勃発したが、中国共産党が勝利し、国民党政府は台湾に撤退した。

 この時期には、ライフサイエンスの研究関連として、動物、植物、生理学などの分野で研究が進められた。ただ、社会全体が政変による混乱や戦争の破壊の中にあり、落ち着いた雰囲気で研究することは困難な時期であった。