中国のライフサイエンスは、古代より稲作や漢方医学などで世界最先端にあったが、ルネサンス以降の西欧近代科学に清朝は圧倒された。

1. 四大発明と中医学

 古代中国では、羅針盤・火薬・紙・印刷の技術を世界の他の地域に先駆けて発明しており、世界全体で見て科学技術の最先進国であった。

 ライフサイエンスの関係でも、中国の医学や薬学の伝統は古く、紀元前の春秋戦国や前漢の時代にさかのぼり、医学書の編纂も確認されている。その後、様々な医学者や薬学者が出て体系化してきたものが、現在にも続いている中国医学(中医学、日本では漢方医学)である。

 中国医学は、全身を見て治療を行うこと、生薬などを用い人間の心身が持っている自然治癒力を高めることで治癒に導くこと、体を侵襲しないことなどの特徴があるが、これらの点は科学的な根拠に基づく近代的な西洋医学治療とは一線を画すものである。現在でも中国では、西洋医学を行う通常の医師と、伝統医学を行う「中医師」の2つの医師資格が併置されている。

 しかし、中国で王朝変遷が続く中で、科学技術における先進性は徐々に失われ、近世に至りルネサンスを経験した西欧の科学技術に大きな後れを取ることになった。

2. 西洋の近代科学との出会い

 中国に西欧の近代科学技術が入り始めたのは16世紀末から17世紀初頭であり、例えばイエズス会の司祭として中国で布教活動に当たったマテオリッチ(利瑪竇)は、世界地図である『坤輿万国全図』(1602年)、ユークリッド幾何学の中国語訳である『幾何原本』(1607年)などを刊行した。

 その後中国は、近代科学技術の圧倒的な力を、西欧列強の侵略という形で経験することになる。1840年に発生した英国とのアヘン戦争、1856年の英国・フランスとのアロー戦争などであり、清朝は近代科学技術に裏打ちされた西欧列強の圧倒的な軍事力に敗退を続け、領土の一部で植民地化の屈辱を受けた。

3. 洋務運動

 これを挽回するため、1860年代前半に清朝の高官である曽国藩や李鴻章らが中心となって、西欧近代文明を導入して国力増強を目指す「洋務運動」が開始された。
 洋務運動の重要な柱は、弱体な清の軍隊の装備を充実させ、訓練などを通じて強兵とすることである。このため、大量の銃砲や軍艦を西欧から輸入するとともに、これらの近代軍備を自前で整備するため武器製造廠や造船廠を各地に設置した。洋務運動により軍事、工業、教育、通信などの整備が進み、併せて中国の近代科学技術の礎が構築された。

 西欧列強の侵略のインパクトは、医学の世界にも及んだ。
 中国ではすでに述べたように、歴史的に中国医学(中医学)の伝統を有していたが、西欧列強が植民地支配の手段としてキリスト教布教を進め、支配地域の病人を治癒することが布教に役立つとの考えから、支配下にある地域に西洋医学による病院を建てていった。
 これが中国の西洋医学との邂逅であり、清朝政府もこれに対抗するため伝統的な中国医学だけではなく西洋医学を施す病院の設置を進めていった。

4. 戊戌の変法と高等教育の拡充

 清朝政府は、西欧の圧力に対抗するため洋務運動を進めたものの、軍事力はそれほど強化されず、1895年には同じアジアの日本との戦争に敗北した。

 危機感を持った清の光緒帝は「戊戌の変法」と呼ばれる改革を実施したが、西太后を中心とする保守勢力のクーデターに遭い失脚した。
 戊戌の変法の成果として残ったのが1898年の京師大学堂の設立で、これが北京大学の前身となった。

京師大学堂の額
京師大学堂の額 百度HPより引用

 京師大学堂設立と前後して、1896年の南洋公学(現上海交通大学)、1897年の求是書院(現浙江大学)、1902年の三江師範学堂(現南京大学)、1905年の復旦公学(現復旦大学)などの設立が相次ぎ、中国における高等教育の基盤が確立された。

5. 留学生の派遣

 高等教育機関の設立に併せ、優れた人材の日本や欧米への留学も積極的に行われた。
 とりわけ、日本は距離的にも近く留学費用も欧米と比して安価であったため、清朝政府は日清戦争の敗戦直後の1896年から官費留学生を日本に派遣し、多くの有為な青年が上海や天津の港から船で日本へ渡り、早稲田大学や東京大学などへ入学した。20世紀初頭に日本に留学した学生数は、1万人から2万人に達したと言われている。

 この様に、高等教育制度が整備され、また日本や欧米への留学が盛んとなるにつれて、近代的なライフサイエンス研究も徐々に盛んになっていった。