はじめに

 呉階平(吴阶平)は、北京協和医学院を卒業した泌尿器科の著名な医師であり、周恩来やインドネシアのスカルノ大統領の主治医であったことでも有名である。

呉階平の写真
呉階平 百度HPより引用

 

生い立ちと教育

 呉階平(吴阶平、Jieping Wu)は、1917年に江蘇省常州市で生まれた。父は成功した実業家であり、裕福な家庭であった。呉階平は四人兄弟の2番目に生まれ、呉階平を含めて4兄弟全てが医者や医学研究者となった。

 呉階平の父は、教育熱心であり自宅に家庭教師を招いて子供たちを教育した。また、紡績工場を経営していてそこで働く米国人の子供たちを自宅に招き、呉階平ら子供たちと遊ばせ、英語を勉強させた。自らは旧清朝の地方役人であり辛亥革命後は実業家であったが、革命後の社会的な混乱を経験して医学を学ぶのが最も賢明と考え、全ての子供たちに医学校へ入学させることにした。

 呉階平は1933年に、天津の匯文中学を卒業して、北京にあった燕京大学に推薦入学した。燕京大学は、1919年に北京にあったキリスト教系の3大学(滙文大学、通州協和大学、華北協和女子大学)が合併して設立された大学であり、新中国建国後は中国政府に接収された。燕京大学では、北京協和医学院に入学するための予科に入った。

北京協和医学院を卒業し医師となる

 呉階平は1936年に予科を卒業して、北京協和医学院本科に入学した。在学中は、泌尿器科の謝元甫に師事し高い評価を受けた。

 呉階平は1942年に北京協和医学院を卒業し、中央医院(現在の北京大学人民医院)に勤務した。当時、北京は日本軍に占領されており、日本軍監視下での医療活動であった。

 1945年に第二次世界大戦が日本の敗北で終了すると、西部に疎開していた北京大学が北京に戻り、北京にあった医学関係の教育機関を中心として北京大学医学院が1946年に設置された。呉階平は、北京大学医学院がの講師となり、また附属病院の外科医も務めた。

米国留学後北京に戻る

 1947年、呉階平は米国中国医療援助協会(ABMAC)の援助を受けてシカゴ大学に留学し、チャールズ・ブレンドン・ハギンズ(Charles Brenton Huggins)教授に師事した。ハギンズ教授は、前立腺癌の研究を行い、ホルモンによりある種のガンの転移が抑えられることを発見し、1966年度のノーベル生理学・医学賞を受賞している。この発見は、ガンが化学物質で制御できることを示す初めての成果だった。
 1948年、呉階平は中国に戻り、北京大学医学院で研究を続けた。

 朝鮮戦争が勃発し、翌年に中国が義勇軍を派遣すると、呉階平は負傷兵を治療するために医療チームを率いて吉林省長春に赴いた。

  1952年に、中国全土で大学の学部再編政策である院系調整政策が実施され、北京大学医学院は北京大学から分離独立して北京医学院となり、呉階平も北京医学院に移った。

 1957年に、呉階平は北京医学院の教授に昇任した。 

中国や外国の高官の主治医

 呉階平はこの時期から、周恩来首相の依頼を受けて、友好国の国家元首の治療を行うようになった。また、国内的にも共産党や政府幹部の治療も行った。

 呉階平が治療に関わった友好国の幹部として、金日成(北朝鮮)、スカルノ(インドネシア)、ホーチミン(北ベトナム)、マルコス(フィリピン)らの名前が挙げられる。

 インドネシアのスカルノ大統領への治療を例に挙げると、呉階平は1962年に医療チームを率いてインドネシアに渡り、腎臓結石を患っていたスカルノ大統領の左腎臓を治療している。これにより、スカルノ大統領は呉階平に勲章を授与し、それ以降も度々呉階平をインドネシアに呼んで、治療を受けている。

 一方、国内的にも共産党や中国政府の高官の治療をおこなっており、著名な例としては後述する周恩来や、文革四人組の一人・江青、毛沢東に対してクーデターをもくろんだ林彪の主治医となっている。

周恩来首相の治療

 1960年代後半、国政に忙殺されていた周恩来首相は突然体調不良に陥った。呉階平率いる医療チームは慎重に診察を行い、周恩来が膀胱がんであることを確認した。この時点で呉階平らは、周恩来が高齢であり心臓病などの基礎疾患も抱えていたため、伝統的な中国医学による保存的治療を採用した。
 しかし、病気は治らず、1973年1月には血尿が確認された。呉階平らは手術執行を決断し、国内トップクラスの泌尿器科の専門家チームを招集した。呉階平らは、周恩来の膀胱腫瘍に電気焼灼術を施し、数時間かけて主要部分を完全に除去し、手術は成功した。
 ところが周恩来の膀胱腫瘍は再発し、1975年の秋に病状が再び悪化した。呉階平らは、周恩来の病状を慎重に分析し、がんは末期段階に入っていて手術は不可能であり、延命治療しかないとの診断となった。呉階平と医療チームは、昼夜を問わず交代で周恩来の枕元にいて、容態の変化を常に監視した。
 翌1976年1月に、周恩来は亡くなった。享年77歳であった。

周恩来の写真
呉階平が懸命な治療を行った周恩来

晩年

 1980年に、呉階平は中国科学院学部委員(現在の院士)に当選した。

 1995年に、呉階平は中国工程院院士に当選した。

 2011年に、呉階平は北京で亡くなった。94歳であった。

参考資料

・澎湃HP 一代“国医”吴阶平
https://www.thepaper.cn/newsDetail_forward_11519517

・有些回忆忘不了 吴阶平曾难过地对人说:“没能治好周总理的病,我抱憾终身”
https://baijiahao.baidu.com/s?id=1817785155499683373&wfr=spider&for=pc