はじめに

 ロジャー・チェン(钱永健、1952年~2016年)は、GFPを発見した日本の下村脩や米国のマーティン・チャルフィーとともに、「緑色蛍光タンパク質の発見と開発」の功績により、2008年にノーベル化学賞を受賞した。

ロジャー・チェンの写真
ロジャー・チェン 百度HPより引用

生い立ちと教育

 ロジャー・チェン(Roger Yonchien Tsien、钱永健、銭永健)は、1952年に米国ニューヨークに生まれた。

 チェンの父親である銭学榘は、1914年に浙江省杭州に生まれ、浙江大学や交通大学などで学んだ後、1936年に庚款留学生としてマサチューセッツ工科大学(MIT)に留学し、空気力学を専攻した。
 卒業後に中国に戻ったが、日中戦争などの混乱を避けて米国に移住し、RCAやエッソに技術者として勤務した。1949年に米国国籍を獲得している。
 銭学榘の父・銭沢夫は、銭学森の父・銭均夫の弟であり、銭学榘と銭学森はいとこの関係になる。

 ロジャー・チェンは、ニューヨークの郊外の小さな町である、ニュージャージー州リビングストンで基礎教育を受けた。

 チェンは、幼少期にぜんそくを患い、ほとんど外出せず自宅の地下室で化学実験に興じた。その甲斐あって16歳の時に、チェンは全米の若者の科学賞である「ウェスティングハウス・サイエンス・タレント・サーチ(現在インテル・サイエンス・タレント・サーチ)」の一等賞を受賞した。

 チェンは、ハーバード大学に入学し、1972年に学士号を取得した。
 その後チェンはマーシャル奨学金を得て英国に留学し、ケンブリッジ大学の大学院に進学した。1977年に同大学からPhDを取得し、引き続き同大学でポスドク研究を行った。

緑色蛍光タンパク質(GFP)

 ロジャー・チェンは1981年に、米国に帰国してカリフォルニア大学バークレー校准教授となり、さらに1989年にはサンディエゴ校の教授となった。

 チェンは、この頃から「緑色蛍光タンパク質(GFP)」の研究に没頭した。
 GFPは、オワンクラゲがもつ蛍光性を有するタンパク質であり、日本生まれの下村脩博士によって発見・分離精製された。下村脩は1928年に京都府で生まれ、米国プリンストン大学フライデーハーバー実験所でオワンクラゲを研究し、1962年にオワンクラゲからGFPともう一つの蛍光物質イクオリンを発見している。

 GFPの発見当初はそれほど注目されなかったが、約30年後の1990年代に、GFP遺伝子の同定・クローニングが成功した。このGFP遺伝子を用いて、多くの研究者が他の物質で蛍光を発生させる実験を進めた。
 チェンもその一人であり、トランスジーンとして異種細胞へのGFP導入・発現に成功し、1995年にネイチャーに論文を発表した。

 GFPは、今日の医学生物学の重要な研究ツールとして用いられ、医学臨床分野にも大きな影響を及ぼしている。

数々の国際賞とノーベル賞の受賞

 GFPの応用開発の成果は極めて画期的であったため、ロジャー・チェンはその後数々の国際賞を受賞した。

 具体的には、1995年にカナダのガードナー国際賞、2002年にオランダのハイネケン賞、2004年にイスラエルのウルフ賞医学部門、同年に日本の慶應医学賞、2005年に米国のローゼンスティール賞などを受賞している。

 そしてチェンは2008年に、GFPを発見した下村脩、米国のマーティン・チャルフィーとともに、ノーベル化学賞を受賞した。受賞理由は、「緑色蛍光タンパク質の発見と開発」であった。

 ロジャー・チェンは2009年に、香港中文大学から名誉理学博士号を受賞した。チューは受賞のセレモニーにおけるスピーチで、「私は米国で生まれ育ちました。中国語を上手に話せません。私は米国の科学者で、中国の科学者ではありません。しかし、祖先は中国人でこれが私のアイデンティティーを形成しています。」と述べている。

香港中文大学の写真
香港中文大学  百度HPより引用

事故により死亡

 ロジャー・チェンは、晩年病気に悩まされた。癌を患って回復するも、2013年に脳卒中となった。

 脳卒中のリハビリを行っていた2016年8月、オレゴン州のユージーンにある自転車道で死亡しているのを発見された。享年64歳であった。

参考資料

・Nobel Prize HP  Roger Y. Tsien Biographical https://www.nobelprize.org/prizes/chemistry/2008/tsien/biographical/