はじめに

 陳景潤(陈景润)は、恩師華羅庚の助力を得、逆境を何度か乗り越えて、ゴールドバッハ予想の一つを解決した数学者である。

陳景潤の写真
陳景潤 百度HPより引用

生い立ちと教育

 陳景潤(陈景润、Jing-Run Chen)は、1933年に福建省福州に生まれた。父は郵便局で働いていたが、陳景潤の7番目の子供であり、一家には子供が多かったため、経済的には貧しかった。

 1937年に日中戦争が始まり、1941年に福州が日本軍に占領されたため、福建省の山間部にある三元(現在の三明)に一家で疎開した。そこで小学教育を終え、初級中学に入った。

 陳景潤は、両親の仕事を手伝いながら学校に通った。陳景潤は、写真記憶ともいえる驚異的な記憶力を持っていた。陳景潤は、年齢より幼く見え体が弱かったため、学校でからかわれたりいじめられたりした。このことがトラウマとなり、陳景潤は内向的な性格となった。

 陳景潤は1948年に、福州英華中学(日本の高校に当たる高級中学で、現在の福建師範大学附属中学)に入った。ここで、数学の教師からゴールドバッハ予想について紹介され、陳景潤は魅了された。

 陳景潤は1950年に、福建省厦門にある厦門大学数学物理学科に入学した。陳景潤が大学生の時、朝鮮戦争が勃発し、中国は北朝鮮を支援するため義勇軍を派遣した。陳景潤は大学を中退して義勇軍に志願するべく大学側に相談したところ、大学側は陳景潤の数学的な才能を惜しみ許可しなかった。

大学を卒業して、中学校の教師に

 陳景潤は1953年に、国家の要請もあって1年早く厦門大学数学科を卒業し、数学の教師として北京第四中学校に配属された。

 しかし、陳景潤は内向的な性格で、会話能力が乏しく、福建訛りが強かったため、北京の生徒には彼の授業を理解するのが困難だった。そこで、学校側は宿題を添削するだけの仕事を担当させたが、それでも適応できなかった。陳景潤は心身に障害を来し、1年間で6回入院した。

 陳景潤は1954年に、北京第四中学から停職処分を受け、故郷の福建省福州に戻って小さな商売を始めた。陳景潤は翌1955年に、母校の厦門大学数学科の恩師の配慮で大学の図書館に職を得、その後、数学科の助教となった。

華羅庚との出会い

 陳景潤は、厦門大学で数論の研究を行い、当時中国科学院数学研究所所長・華羅庚の素数論に関する論文を発表した。この論文を読んだ華羅庚は、陳景潤に関心を寄せ、1957年に自らの研究所に呼び寄せた。

陳景潤と恩師・華羅庚の写真
陳景潤(右)と恩師・華羅庚(左)百度HPより引用

 華羅庚は、ゴールドバッハ予想を中心とした研究会を主宰していて、その研究会に陳景潤も参加し、数学研究所のメンバーたちと討論を繰り返し、ゴールドバッハ予想に対する自らの知見や分析を蓄積していった。

ゴールドバッハ予想を解決

 陳景潤は1965年に、「十分大きな全ての偶数は、素数と高々二つの素数の積であるような数との和で表される」というゴールドバッハ予想の一つを証明したとして、「科学通報」という学術誌に論文を公表した。しかし、元々の論文全体が200ページを超える長さであり、学術誌には詳細な証明までは公表されなかったため、国際的に認められなかった。そこで陳景潤は、証明の記述を簡素化することに全力を注ぐこととした。

 ところが、1966年に文化大革命が始まり、陳景潤らの知識人の多くが革命派の批判と迫害の対象となってしまった。陳景潤は「ブルジョア階級の人物」とされ、身柄を拘束された。このような状況でも、陳景潤はゴールドバッハ予想の論文執筆を継続した。
 陳景潤は1973年に、前回の論文をもとに、より簡素化した証明を「中国科学」誌に公表した。今回は、国際的な評価も高く、英国の数学者が絶賛して、この証明を「陳の定理」と名付けた。

陳景潤の論文写真
陳景潤の論文が掲載された学術誌「中国科学」 科普中国HPより引用

一躍時の人に

 陳景潤は、ゴールドバッハ予想の一つを解決したことにより、一躍時の人となった。

 陳景潤は、この功績により、1977年に数学研究所の正式な研究員となった。

 文化大革命終了後に復活した鄧小平は、1978年の全国科学大会で陳景潤と会って、その業績を称賛した。

陳景潤と鄧小平の写真
陳景潤(左)と握手する鄧小平(右) 科普中国HPより引用

 陳景潤は1980年に、中国科学院学部委員(現在の院士)に当選した。 

病気とケガに悩まされる

 陳景潤は、ゴールドバッハ予想の一つを解決したことにより、一躍時の人となったが、その後病気に悩まされた。
 陳景潤は、文革革命派による長期の迫害や拘束のため、1973年に重度の腹膜炎を患い、病院に長期間入院した。幸い腹膜炎は回復し、病院を退院することができた。

 陳景潤は1984年に、パーキンソン病と診断された。その後の 10 年間以上、陳景潤はほとんどの時間を病院で過ごしたが、研究を中断することはなかった。陳景潤が病院で医師に注射をしてもらう際、右手への注射を拒否した。右手で論文を書く必要があり、右手が使えなくなことを恐れたのである。パーキンソン病が悪化し、はっきり発音できなくなったり、手でペンを持てなくなったりしたが、陳景潤は身振りや曖昧な言葉を使ってでも、数学の問題を議論することにこだわった。

 陳景潤は1996年に、肺炎を併発して亡くなった。享年63歳であった。

参考資料

・科普中国HP 陈景润的故事在当时被广为传播
https://www.kepuchina.cn/dmkx/shylbt/201901/t20190131_929109.shtml
・中国共産党新聞网HP 邓小平愿做陈景润的“后勤部长”
http://dangshi.people.com.cn/n/2014/0812c85037-25452539.html