1. 文化大革命の開始

 1965年11月、後に四人組の一人となる姚文元は、上海の日刊紙「文匯報」に、「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」と題した論文を発表した。この論文で姚文元は、海瑞が廬山会議で大躍進運動政策を批判して失脚した彭徳懐の比喩であり嘉靖帝が毛沢東の比喩であると主張し、『海瑞罷官』はプロレタリア独裁と社会主義への挑戦であると攻撃した。姚の意図は、毛沢東の意向を受け『海瑞罷官』を著した呉晗の上司である北京市長の彭真を失脚に追い込むことであった。この論文が文化大革命の序幕であり、呉晗は文革中に投獄され自殺した。文化大革命発生直後の1966年4月、中国科学院院長の郭沫若は自己批判を行い、以降毛沢東の庇護を受けた。

 1966年5月に、北京大学の哲学科の教師であった聶元梓らは、北京大学共産党委員会の指導部を批判する内容の壁新聞(大字報)を学内に掲示した。さらに、清華大学附属中学(日本の高校に相当)の生徒たちは、秘密裏に上記聶元梓らの壁新聞などの動きを支持する組織を結成した。これが紅衛兵の始まりで、以降同年北京地質学院附属中学、北京石油学院附属中学、北京大学附属中学などの生徒が、紅衛兵の組織を相次いで設立した。

2. 中国科学院での文革の開始

 1966年6月、中国科学院傘下の応用地球物理研究所の一部スタッフは、中国科学院幹部が小麦の収穫に職員を動員したことを取り上げ、職員の文革への参加を阻止しようとしたものであると非難し、所内の通信設備や交通手段を占拠・支配し保安要員の幹部を監視下に置くという、いわゆる「応地所事件」が起きた。中国科学院の副院長であり林彪勢力の主要メンバーであった陳伯達は、この事件を科学技術界の「造反の模範」として担ぎ上げることにより、中国科学院での文革を促進することを狙った。 7月、人民大会堂で科学界万人大会が開催され、陳伯達は「応地所事件」の関係者を扇動して「中国科学院の指導者が群衆の鎮圧に動き、文化大革命を破壊した」と非難させた。これにより、中国科学院でも文化大革命の混乱が始まった。

 翌1967年1月、中国科学院内の北京地区にいた造反派が「革命造反派連合奪権委員会」を発足させた。これにより、中国科学院の正常業務は停止に追い込まれた。さらに同年7月には、人民解放軍代表、革命指導幹部及び革命群衆代表による三者連合体制により「中国科学院革命委員会」が発足し、上記の奪権委員会は解散した。革命委員会の主任のポストをめぐって、奪権委員会は上記の陳伯達副院長を推したが、最終的に国務院総理の周恩来が郭沫若に引き続き指導に当たるよう裁定した。しかし、12名の委員では造反派が多数を占め、郭沫若院長は名ばかりの主任となった。

3. 文革での被害

 1968年7月、革命委員会は、「階級隊列の純潔化」を全面的に展開すると宣言した。この純潔化運動の中で、多くの中国科学院幹部が取り調べを受け、不法に監禁されたり、残酷な迫害を受けたり、拷問で自白を強要されたりした。中国科学院の公式資料によると、当時中国科学院の北京地区における職員の総数は9,279名で、このうち取り調べを受けた人は全体の9.5%に当たる881名に上り、さらに革命に対して敵対的性質があると判定されたのは102名で、北京地区の総職員数の1.1%、取り調べ対象者の11.5%に上った。

 1968年末までに、北京地区の中国科学院本部の幹部7名もすべて「打倒の対象」となり、局長クラス71名及び課長クラス192名のうち、それぞれ59名(83%)、99名(52%)が「打倒」又は「重点的取り調べ」の対象となった。文革の十年間、中国科学院の職員全体のうち家財を没収された家庭は1,909戸、迫害を受けて死亡した人は229名に上った。

4. 下放

 1969年3月及び5月に、中国科学院北京地区の多数の幹部や研究者が北京を離れ、寧夏回族自治区陶楽県、湖北省潜江県に下放され、労働に従事することとなった。

 下放を免れた研究者についても、思想改造の試練が続いた。文化大革命は中国科学院の活動そのものを「修正主義の科学研究路線」として批判対象とし、「工場に向き合い、農村に向き合い、学生に向き合う」ことをスローガンとするよう求めた。1970年4月、北京地区の研究者は中国科学院での研究活動をやめて、1,811名が工場や農村へ向かい、190名が33の中学校と8つの小学校へ向かった。本来地理学を究めている研究者が政治を教えたり、植物学の研究者が工場で三極管を製造したり、微生物の研究者が粉末金属精錬に従事したり、遺伝学を研究者がブレーカの開発に従事したり、動物学の研究者が自動車部品を生産したり、という惨状となった。

5. 組織の改編

 文化大革命が進行するにつれ、中国科学院傘下の研究所が四分五裂状態になっていく。

 最初に動きがあったのは、国防関係の研究をしていた部署である。文革の初期、科学研究活動が深刻な影響を受けることを危惧した周恩来らは、1966年12月、「東方紅一号」衛星プロジェクトを所管する研究所や工廠などを人民解放軍の管理下に置いた。さらに1967年に入り、国防に関する科学研究の組織化を進め、18の研究院を設立することとなった。リソースを集中させると同時に、文革の混乱の時期において、国防部門は比較的安定を保っていたことから、国防に関する科学研究事業や科学技術人材を保護するという目的もあった。しかし、国防系の科学研究部門もほどなく政治運動に巻き込まれ、これら研究所も守ることができなかった。調整の結果、実力のある研究所が中国科学院から切り離され、あらゆる学術・科学技術分野をカバーしていた中国科学院の総合的な優位性は失われてしまった。

 1970年6月、中国科学院革命委員会は、党中央の了承を得て、傘下の48研究機関を地方へ移転させ、30機関を地方政府と中国科学院の二重指導体制下におき、5機関を産業部門に移管させた。その結果、中国科学院は北京地区の18研究機関を残すのみとなり、中国の科学技術事業に重大な損害をもたらした。

 このように文革中は分裂状態に置かれた傘下の研究所も、文革終了後は徐々に、中国科学院に復帰していく。

6. 文化大革命の終息

 1975年初頭、周恩来の病状が悪化し、鄧小平が共産党や国務院の日常的業務を実質的に指揮することになった。鄧は軍隊の整理から着手し、整理対象を次第に全国の各セクターに広げ、文革時代の誤りを是正していった。同年7月、共産党中央は胡耀邦らを中国科学院に送り込み、同院への指導を強化した。胡耀邦らは北京地区の各研究所を訪問し、各種の座談会開催や調査活動を実施して状況把握に努め、科学研究を軌道に乗せるよう促した。

 秩序の早期回復のため、同年8月、中国科学院の科学者が参加して「百家争鳴」座談会が開催された。科学者らは座談会で、文革が研究活動に与えたダメージを念頭に、理論研究と基礎的活動を重視すべきとの提案を行った。半導体研究所の王守武は、中国で生産される大規模集積回路の歩留まりが日本を大きく下回っている原因を分析し、基礎研究が手薄なため半導体に存在する問題が十分解明できていないためだと指摘した。力学研究所の呉仲華は、理論研究の成果を生産に応用することが重要であるとして、中国科学院は基礎研究の担い手として新技術、新手法の模索を担当するべきであり、国防・工業部門が行う型式開発とは棲み分けるべきだと指摘した。

 1975年12月、中国科学院の四人組に同調する一派が、二度にわたって毛沢東に書簡を送り、胡耀邦らの活動を非難した。1976年初頭、胡耀邦らは停職処分となり、調査を受けることになった。同年2月、首都体育館で「万人批判大会」が開催された。中国科学院の多数の職員は四人組の横暴に不満を募らせており、この大会が始まった時、職員らは出席して批判を受けた側の幹部(胡耀邦は病気のため不参加)に熱烈な拍手を送り、四人組同調者が批判の発言を始めると、多くの人が次々と席を立って会場を後にした。

 1976年4月、同年1月に死去した周恩来の追悼のために天安門広場にささげられた花輪が北京市に撤去されたことに激昂したデモ隊と鎮圧部隊が衝突し、鎮圧された事件(いわゆる第一次天安門事件)が発生した。

 1976年10月に四人組が失脚し、翌年1月、方毅が中国科学院の副院長に任命され、以降方毅が文革後の中国科学院再建を指導することとなった。方毅は科学研究関係の人ではなく、抗日戦争や国共内戦を戦い抜き、新中国建国後は財政経済分野で活躍した政治家・軍人である。郭沫若初代院長は1978年6月に死去し、1979年7月方毅が第2代中国科学院院長に任命された。