中国の医学について、日本国際貿易促進協会が旬刊誌として発行している「国際貿易」の2023年12月5号に投稿した記事を、一部修正の上で紹介する。
中国医学の伝統
中国の医学の伝統は古く、紀元前の春秋戦国や前漢の時代にさかのぼり、医学書の編纂も確認されている。その後、様々な医学者や薬学者が出て体系化してきたものが、現在にも続いている中国医学(中医学、日本では漢方医学)である。
中国医学は、全身を見て治療を行うこと、生薬などを用い人間の心身が持っている自然治癒力を高めることで治癒に導くこと、体を侵襲しないことなどの特徴がある。
現在でも中国では、西洋医学を行う通常の医師と、伝統医学を行う「中医師」の2つの医師資格が併置されている。
西洋に後れを取る
しかし近世に至り中国は、西欧に大きな後れを取ることになった。西欧の圧倒的な力を、アヘン戦争などで経験することになる。
西欧列強の侵略のインパクトは、医学の世界にも及んだ。西欧列強は植民地支配の手段としてキリスト教布教を進め、支配地域の病人を治癒することが布教の手段であるとの考えから、支配下にある地域に西洋医学による病院を建てていった。そしてその病院で西洋医学の医者を育てるべく教育を開始した。
これが中国の西洋医学との邂逅であり、清朝や国民政府がこれに倣って西洋医学を中心とした専門学校を設置し、現在の北京大学や浙江大学などの医学部の原型となった。
南の湘雅、北の協和
中国の医学教育の初期段階で設置された代表的な機関が、湘雅医学専門学校と北京協和医学院である。
湘雅医学専門学校の原型は、米国イェール大学の卒業生の援助により1906年に湖南省長沙市に設置された雅礼医院である。顔福慶というイェール大学卒の医師が帰国して同医院の外科医として勤務した後、母国の医学教育の実情を憂えて湖南省政府と母校イェール大学に強く働きかけ、1914年に同校が設立された。
もう一つの北京協和医学院は、米国のロックフェラー財団の多額の寄付により、1919年に北京に設立された医学教育機関である。1921年には附属病院として北京協和医院を開設した。
二つの医学教育機関は、現在でも中国の西洋医学教育を牽引し、「南の湘雅、北の協和」と呼ばれている。
中国人の母~林巧稚
北京協和医学院の代表的な卒業生は、著名な女医・林巧稚である。
林巧稚は設立間もない1921年に北京協和医学院に入学し、卒業後に北京協和医院の産婦人科医となった。勤務を始めて間もない頃、重篤の妊婦が病院に運ばれてきた。林巧稚は直ちに主任に相談したところ、主任は自身で手術を行うように命じ、彼女はこの手術を無事に成功させた。林巧稚は助手的な立場から一人前の医師として病院内で認められることとなった。
林巧稚は、戦争で日本軍に北京協和医院が占領されていた時期を除いて、同医院で勤務を続け多くの出産に立ち会うとともに、婦人病の研究に没頭した。
文化大革命では、「反動学術権威」とのレッテルを張られ、医者として扱われず、便器や痰壺の清掃などの業務を強要された。文革終了後も北京協和医院で働き続け、1983年に亡くなった。死の床で昏睡状態に陥った際にも、分娩に使用する鉗子を求めて、「早く、早く、鉗子を下さい」とうわごとを言ったという。
彼女は、生涯約5万人の出産をケアしたと言われており、「中国人の母」と呼ばれている。
参考資料
・張清平『林巧稚伝』団結出版社 2017年